このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2009年

金崎宮〜金ヶ崎城跡〜
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金前寺 から金ヶ崎城跡へ。


金ヶ崎城跡に 金崎宮 (HP)がある。


金崎宮


御祭神は尊良(たかなが)親王・恒良(つねなが)親王。

沈鐘伝説

 延元元年(1336年)、 新田義貞 らの南朝軍は、後醍醐天皇の皇子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に下り、金ヶ崎城に入った。足利軍との戦いに破れ、義貞の子で大将の義顕は陣鐘を海に沈めた。後に国守が海に海士を入れて探らせたが、陣鐘は逆さに沈み、龍頭が海底の泥に埋まって、引き上げることができなかったという。

月いつこ鐘は沈めるうみのそこ

金前寺 に句碑がある。

左中将城破れて、洪鐘此金ヶ崎 の海に沈しと言伝れば。

鐘はふかし浪近ければ秋の声


左中将は新田義貞のこと。左近衛中将。

 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、金ヶ崎城跡で南朝新田方に思いを馳せている。

 これにて我等の細道の旅終りを告げる、金が崎古城の中程のお茶屋で、夜汽車までのひま潰しに、牛鍋で一盃傾けた、其時南朝新田方の勇士海上三里を泳ぎ渡つたが、此下の磯にでも上つたか、此處は要害の切處だが、いざ落城となれば袋の鼠で逃げ場なからう、皇子方はいたはしかつたと、語る語る眠くなり、さし入る小春の日影あたゝきに手枕して、同行二人、思ひ思ひの夢に入り去る、あすは東京に着くばかり。


月見御殿から敦賀湾を見下ろす。


海抜86メートル、金ヶ崎の最高地だそうだ。

鳶が舞っていた。


 元亀元年(1570年)4月、 織田信長 は朝倉義景討伐を企て越前に攻め入った時、お市の方が信長に届けた「小豆袋」で近江浅井氏の裏切りを知る。

 その時 豊臣秀吉 は金ヶ崎城で殿(しんがり)を務めたのである。

 元禄16年(1703年)秋、岩田涼菟は金ヶ崎を訪れている。

初鴈や海に出向ふ金ヶ崎


 享保6年(1721年)、 露川 は門人燕説を伴い金ヶ崎を訪れている。

金が崎には新田將軍の昔を語り、天筒の峯は月に便よく、安玉の清水の歸帆を見をろす。野坂道口春によろしく冬におかし。佳景ひとつとして手を打ておどろかざるはなし。熊澤氏の何某すぐられたる十題に、

    道口行人

浮沈む笠や霞のみちの口
   無外

    金崎晩鐘

明六つや紅葉碎けて金が崎
   居士


 明治42年(1909年)10月16日、河東碧梧桐は金ヶ崎城跡に上った。

 午後の汽車で福井を出発した。古蛄同行してこの地に着き、車を列ねて 気比神宮 に詣で、金が崎城址に上って、沖の漁火を見ながら、往昔を語った。熊谷迫。


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