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私の旅日記2010年

棚倉城址〜元帥畑俊六終焉之地〜
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棚倉町棚倉城跡の亀ヶ城公園に行ってみた。


内堀の紅葉


亀ヶ城公園は棚倉城址である。

慶長8年(1603年)、 立花宗茂 は初代棚倉藩主となる。

元和6年(1620年)、初代柳河藩主となる。

元和8年(1622年)、丹羽長重が棚倉藩主となる。

棚倉城跡

─── 昭和23年7月 県立公園に編入 ───

 二代将軍徳川秀忠は、丹羽五郎左ヱ門長重に命じて、棚倉に平城を築かせた。

 長重は案を練り、この地にあった近津神社の神境を最適地とし、宮を現在の馬場都々古和気神社に移し、寛永2年、この地に築城をはじめた。

 寛永4年、長重は 白河 に移されたが、代わって滋賀県近江山城より内藤豊前守信照が城主となった。

 阿部美作守正静の代になり、 戊辰戦争 の兵火にかかり、慶応4年6月24日落城した。

 この間250年、城主の代わること16代であった。

棚   倉   町
棚倉町観光協会

丹羽長重は織田信長の重臣丹羽長秀の長男。

橋を渡る。


明和8年(1771年)6月4日、諸九尼は棚倉に泊まっている。

 四日 奥州の境に入り、棚倉といふ城下に来りぬ。三十日あまり照つゞき侍れ、暑さも日に日にいやまさりてくるしく、道々の事も覚え侍らで、目もとゞまらず、申の時ばかりに宿をかりぬ。


隅櫓へ。


嘉永5年(1852年)1月25日、吉田松陰は棚倉のことを書いている。

二十五日  雪。鎌田・千石・石川・赤羽・棚倉を經て、白川に至る。行程十里。上田より白川に至る、山聳え道窄く、田圃極めて少なし。鎌田以北は少しく田地あれども亦磽(こう)カク(※「石」+「角」)瘠鹵なり。其の山水は或は吟人墨客の觀に適すと雖も、其の農桑の業に於いては困苦も亦如何ぞや。奥の棚倉は天下の瘠地と稱す。今過ぎし所は棚倉を距ること甚だしく遠からざれば、即ち造(いた)り觀ずと雖も亦推して知るべきなり。白川は阿部播磨守の都なり、封彊十萬石。


元帥畑俊六終焉之地


昭和14年(1939年)8月30日、阿部内閣の陸軍大臣に就任。
昭和16年(1941年)3月1日、支那派遣軍総司令官となる。
昭和23年(1948年)11月12日、東京裁判で終身刑宣告。
昭和29年(1954年)10月、仮釈放を受けて出所。
昭和33年(1958年)4月、 赦免。7月、偕行社会長となる。
昭和37年(1962年)5月10日、忠霊塔の除幕式最中に急死。

偶々昭和三十七年五月十日棚倉町忠霊塔の除幕式に臨み祭文を捧して席に復し感激餘って忽焉星と化して昇る噫磐城の空に

昭和38年(1963年)5月10日、建立。陸軍大将鈴木孝雄書。

鈴木孝雄は内閣総理大臣鈴木貫太郎の弟である。

昭和2年(1927年)7月26日、陸軍大将。
昭和13年(1938年)4月21日、第四代 靖国神社 宮司。
昭和29年(1954年)4月、偕行社会長に就任。

昭和39年(1964年)1月29日、薨去。

野田市の 実相寺 に墓がある。

追手門付近の紅葉


大ケヤキ


天然記念物

棚倉城跡の大ケヤキ

 寛永2(1625)年に初代城主の丹羽五郎左衛門長重公が棚倉城を築城する以前からこの地に存在していたといわれ、近津明神の社木であり、樹齢は約600年に達するものと推定されています。この大ケヤキ県内でもまれに見るケヤキの大木であり、その風格はにおいては右に出るものはありません。

土塁を一周してみた。


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