このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

昔の旅日記

白河〜小峰城〜
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新甲子温泉 から国道289号で白河へ。


カーナビの指示に従って、小峰城に行く。


 小峰城は 盛岡城会津若松城 とともに東北の三名城の1つに数えられるそうだ。

 南北朝時代、結城親朝(ゆうきちかとも)が興国元年(1340年)に小峰ヶ岡に城を構えたのが始まり。

 寛永4年(1627年)、丹羽長重は 棚倉 藩より白河に入り、初代藩主となる。

 寛永9年(1632年)、小峰城完成。

 寛永20年(1643年)、丹羽光重は 二本松 藩へ移封され、その初代藩主となる。

 天明3年(1783年)、 松平定信 が藩主となる。天明の大飢饉の最中である。

 天明7年(1787年)、定信は老中首座・将軍輔佐となる。

 寛政3年(1791年)6月3日、鶴田卓池は白河を訪れている。

三日 二り半矢吹 壱り廿九丁大田川 是ヨリ

百文ニ九十六文通用也 二り四丁白川

   白川城主松平越中守 十万石

『奥羽記行』 (自筆稿本)

 寛政5年(1793年)7月23日、定信は老中首座並びに将軍補佐の職を辞す。

 藩主阿部正外(まさと)は蟄居、阿部正静(まさきよ)は棚倉に左遷され、白河は天領となって幕末の動乱を迎える。

 嘉永5年(1852年)1月25日、吉田松陰は白河に着き、28日まで滞在。

二十六日 雪。白川に滯まる。劍客箕田大六を訪ふ。其の人愚魯にして目に一丁字なく、語る所も尋常の俗談のみ、而して一事を記す。「白川城は織田氏の時始めて築き、丹羽長秀を置く。近ごろ城を修して石材に五郎左衛門の字を刻めるものを得たり」。と。


 慶応4年(1868年)閏4月20日(陽暦6月10日)会津藩兵に襲われ、焼失。5月1日(陽暦6月20日)落城。

東軍の兵力2,500〜2,600名、西軍は700余。

簡単に落ちる城とは思えないのだが……。

白河口の戦いの戦死者は、東軍927名、西軍113名という。

 明治26年(1893年)7月20日、 正岡子規 が訪れている。

 白河の東半里許りに結城氏の城址ありと聞きて畦道辿り行く。水車場をめぐりて山に上る事數十歩高さ幾丈の巌石を巧みに鉛直に遮りて其面に感忠銘と題せる文を刻せり。


平成3年(1991年)に三重櫓(やぐら)、平成6年(1994年)に前御門が復元された。


平成18年(2006年)4月6日、 日本100名城 に選定される。

 小峰城・三重櫓は、震災の影響で石垣が崩れているため、入場を見合わせております。

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