このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2010年
〜
盛岡城跡
〜盛岡銀行〜
盛岡市内丸に盛岡城跡がある。
盛岡城は
日本100名城
のひとつである。
小峰城
、
会津若松城
とともに東北の三名城の1つに数えられるそうだ。
寛延4年(1751年)秋、和知風光は白河から『宗祇戻』の旅に出る。南部城下で越年。
南 部 城下に春を迎て歳旦としのくれ二句
鐘聞て誠の春になりにけり
我は旅にあそひて年を忘ぬる也
『宗祇戻』
(風光撰)
嘉永5年(1852年)3月11日、吉田松陰は盛岡へ。
十一日 晴。未後雨あり。村を發す。渋民を經て盛岡に至り、中津川の橋を渡りて、村井京助を訪ふ。石町に至りて宿す。行程三里。是れ南部美濃守二十萬石の都なり。
『東北遊日記』
今は岩手公園になっている。
本丸南西部の石垣
明治39年(1907年)12月16日、河東碧梧桐は岩手公園を見ている。
南部にもこんな日和があるかと思うほど穏やかな日じゃ。
午後岩手公園を観る。幾万円とかを費やしたというので、東奥の天地に評判の公園になった。東京の日比谷公園を作った人の設計になるとかで、樹木の植え方、丸い自然石で畳んだ溝、四阿屋の洒落な作り、いずれも日比谷公園式である。ただこっちは築き上げた昔の城跡をそのままに取囲んだので、日比谷の平面式とは反対に突起的である処が違う。
それから、根から白い雪の南部富士に対する雄大な景と、古雅な鰐口でも振るような馬の鈴を聴く趣きとは、武蔵野を掘り返しても見当らぬ。
片富士の片そぎや雪の峰つづき
『三千里』
「南部富士」は岩手山。別名、南部片富士。
「二の丸」に新渡戸稲造文学碑があった。
願はくはわれ
太平洋の橋
とならん
文久2年(1862年)8月8日(新暦9月1日)新渡戸稲造は盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれた。
大正7年(1918年)、東京女子大学学長に就任。
昭和59年(1984年)11月1日発行の五千円紙幣の肖像として知られている。
昭和37年(1962年)9月1日、新渡戸稲造生誕百年を記念して建立。
石川啄木の歌碑もあった。
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
昭和30年(1955年)10月、啄木生誕70年を記念して建立。
少年時代の
石川啄木
が学校の窓から逃げ出して来て、文学書、哲学書を読み、昼寝の夢を結んだ不来方城二の丸がこの地だった。その当時盛岡中学は内丸通りにあり、岩手公園とは200メートルと離れていなかった。
岩手公園から中の橋を渡る。
明治39年(1907年)12月19日、河東碧梧桐は中の橋について書いている。
日光の
神橋
以北擬宝珠のある橋というのは、恐らくこの地の中津川に架した中の橋であろう。南部侯が洛の三条に擬した名残を止めておる。擬宝珠に「慶長何年」という刻印がある。惜しむらくは、今の橋の形がその擬宝珠と調和しておらぬ。しかもペンキ塗りである。県庁の建物は宏壮東奥第一じゃ。市役所は貧乏な裏長屋に似ておる。
『三千里』
大正5年(1926年)3月、
若山牧水
は盛岡城址で歌を詠んでいる。
盛岡古城址にて
樅桧五葉の松はた老槙の並びて春の立つといふなり
雫石川か中津川か
城あとの古石垣にゐもたれて聞くとしもなき瀬の遠音かな
第9歌集『朝の歌』
大正15年(1926年)10月21日、牧水は沼津発、福島泊、22日盛岡 泊、23日青森 泊、24日札幌 着、その後1ヵ月半北海道を巡る。
中の橋を渡ると、盛岡銀行中ノ橋支店があった。
国の重要文化財である。
明治44年(1911年)4月、盛岡銀行本店として完成。
弧光燈
(アークライト)
にめくるめき
羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり
まちはしづかにたそがるゝ
宮沢賢治
昭和58年(1983年)11月、本店移転により中ノ橋支店となる。
私の旅日記
〜
2010年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください