このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2013年

飛騨国分寺〜三重塔〜
indexにもどる

高山市総和町に 飛騨国分寺 (HP)がある。


飛騨国分寺の概要( 高野山真言宗

この寺は天平18年(746年)、聖武天皇の勅願により国家と国民の平安を祈念するために建立され、開基は 行基菩薩 と伝える当国第一の古刹である。

天正13年(1585年)、秀吉の武将金森長近は松倉城攻略に当り五重塔を焼いたが、その後飛弾を領し高山城構築と共に大いに当寺再興を助け、本堂を大修理し境内地を寄進し、元和元年、三重塔を再建した。

鐘楼門


 高山市指定重要文化財(建造物)

 建築年代は安土桃山時代(16世紀)とされる。屋根はもと柿葺(こけらぶき)であったが、昭和30年に銅板葺とした。屋根の軒は一軒疎垂木、妻は木連格子(きづれごうし)である。上層は円柱で、簡素で力強い組物をもち、勾欄を廻す。下層は角柱6本で、それぞれに面取りがある。

 梵鐘(市指定文化財)には、永正11年(1514年)の古銘があり、もと吉城郡荒城郷三日町(現国府町三日町)の十王堂の鐘であった。宝暦11年(1761年)、大萱(おおがや)村横山作助が、改鋳して当山に寄進した。

 国分寺の晩鐘は飛州八景の随一として、「国分霊地絶繊塵 雁塔今経幾許春 好是楼前視聴楽 暮鐘声裡月清新」(国分寺の境内は古びた三重塔がそびえ静かである。暮れゆけば鐘が鳴りわたり、月影清く美しい)とある。

高山市教育委員会

醫王山飛騨国分寺


三重塔


高さ22メートル

 岐阜県指定重要文化財(建造物)

 天平13年(741年)の詔勅により建立された塔も、引仁10年(819年)に炎上し、斎衡(さいこう)年中(854〜857)に再建した。応永年間(1394〜1428)には兵火にかかったと伝えられる。その後再建されたが、戦国時代金森氏が松倉城の三木氏を攻めた際に損傷し、元和元年(1615年)、金森可重が三重塔を再建したと三福寺小池家文書「国分寺大平釘図」に記録されている。

 現在の塔は、寛政3年(1791年)の大風で吹き倒されてから31年後、庶民の喜捨浄財金800両と大工手間5,500人工をかけて、文政4年(1821年)ようやく竣工を見たものである。棟梁は3代目水間相模であった。

 昭和53年には、屋根の修理と自動火災報知設備、保護柵の設置を行った。屋根は、建立当初柿葺(こけらぶき)であったが、大正11年に桟瓦銅板葺に変更され、昭和53年には銅平板葺となった。

 飛騨では唯一の塔建築で、金剛界、胎蔵界の大日如来(真言密教の教主)を安置する。

高山市教育委員会

枯山水に芭蕉の句碑があった。


藻にすたく白魚とらは消ぬへし

出典は「真蹟短冊」。

『東日記』(言水編)には「消ぬべき」とある。

延宝9年(1681年)、芭蕉38歳の句。

寛保2年(1742年)、芭蕉の五十回忌に西田遊魚建立。

遊魚が大垣に遊んだ時、神照院住職沙門尭暁法印から芭蕉の真蹟短冊を乞い受けた。芭蕉が大垣藩士津田前川の家に泊まった時のもので、法印が譲り受けたものである。江戸深川の 發句塚 になぞらえて「短冊塚」と称した。

寛保2年(1742年)12月、記念集『短冊塚』刊行。

遊魚は支考の門人。通称半助。蓑笠庵。

延享2年(1746年)5月20日、没。

『諸国翁墳記』 に「短冊塚 飛州高山在 連中建」とある。

私の旅日記2013年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください