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私の旅日記
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2004年
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慈眼山舒林寺
〜番傘の歌碑〜
関越自動車道上里SAのユリの木
大方葉を落としてしまった。
関越自動車道沼田ICから国道120号に入り、沼田市街に向かう。
慈眼山舒林寺山門
曹洞宗
の寺である。
山門を入ると、林柳波
(りゅうは)
の詩碑があった。
子持山淡き夕月
母眠る舒林寺の丘
ふるさとの花静かなり
柳波
平成5年(1993年)、建立。
詩碑の形は夕月をイメージしたものだと思われるが、子持山に懸かる夕月は満月ではなく、「糸のやうなみかづき」だと思う。
林柳波
(りゅうは)
は明治25年(1892年)群馬県沼田市生まれる。本名は照壽
(てるとし)
。13歳の時、兄を頼って上京。大正7年(1918年)鈴木三重吉が『赤い鳥』創刊、これを契機に童謡運動が盛んになると、柳波は代表的童謡詩人として知られる
野口雨情
の影響で詩作を行うようになった。
舒林寺本堂を右に行くと、番傘の歌碑があった。
番傘の歌碑
かみつけのとねの郡の老神の時雨ふる朝を別れゆくなり
老神温泉
にも歌碑がある。
相別れわれは東に君は西にわかれてのちも飲まんとぞおもふ
歌集未収録の歌である。
番傘の上に徳利。
番傘の左に説明が書いてある。
若山牧水は大正11年「みなかみ紀行」の旅に奥利根を訪れた。友人との別れに際し、番傘に酔筆をはしらせた。その複製を歌碑とする。
牧水会發起人代表
生方誠
の遺志により当山に建立す。
牧水生誕百年記念
昭和61年10月20日
番傘の歌碑建立の会識
歌碑の前の立て札には歌の説明が書いてあった。
吉次君に寄す
かみつけのとねの郡の老神の時雨ふる朝を別れゆくなり
大正11年10月26日
なほ書きつける一首 酔牧
相別れわれは東に君は西にわかれてのちも飲まんとぞおもふ
大正11年(1922年)、10月25日、老神温泉に泊まる。翌朝立とうとすると、ひどい雨。K−君は飛び出して番傘を買ってきた。
起きて見ると、ひどい日和になっていた。
「困りましたネ、これでは立てませんネ」
渦を巻いて狂っている雨風や、ツイ渓向うの山腹に生れつ消えつして走っている霧雲を、僅かにあけた雨戸の隙間に眺めながら、朝まだきから徳利をとり寄せた。止むなく滞在ときめて漸くいい気持に酔いかけて来ると、急に雨戸の隙が明るくなった。
「オヤオヤ、晴れますよ」
そう云うとK−君は飛び出して番傘を買ってきた。
『みなかみ紀行』
K−君の買ってきた番傘
沼津市若山牧水記念館
にある。
K−君は生方吉次君。
牧水の歌碑は全国で130余あり、大悟法利雄氏が克明に数を調べているが、この碑は133番目に数えていると思う。
『沼田万華鏡』(第29号)「牧水利根の旅」
『若山牧水歌碑インデックス』(榎本尚美・篁子共著)によれば、146番目の牧水碑である。
金精道路
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