このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

2019年の旅日記

歴史の見える丘〜正岡子規の句碑〜
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呉市宮原の487号線沿いに「子規句碑前」のバス停がある。

子規の句碑は、バス停前にはない。

そこから歴史の見える丘まで坂道を上った所にあった。

正岡子規の句碑


   呉港
呉かあらぬ
   春の裾山
     灯を灯す

『寒山落木 巻四』 (明治二十八年 春)に収録の句。

この句は、明治28年3月9日に、友人古嶋一雄が海軍従軍記者として、軍艦松島に乗り組んで出征するのを見送るため、呉を訪れた正岡子規が詠んだ3句のうちの1句です。当時は、広島と呉を結ぶ鉄道は未開通だったので、子規は 宇品港 から船で呉の川原石港へ向いました。呉軍港入口のウルメ島附近にさしかかったとき、正面に見える休山山麓の日暮れの情景を詠んだ1句と思われます。

この句碑は、昭和33年12月に、宮原地区有志により、 約90メートル南西の交叉点中央部に建立されましたが、道路改良のため昭和53年に現在地へ移設したものです。なお、句碑の文字は、子規の直筆を写真版から復刻したものです。

呉 市

歴史の見える丘から見下ろす。


「澤原為綱翁之像」の台座


噫戦艦大和之塔


昭和44年(1969年)8月8日、戦艦大和第30回進水記念日に建立。

渡邊直己の歌碑


ほそぼそと虧けたる月に対ひつつ
戦は竟に寂しきものか

昭和14年(1939年)8月21日、渡邊直己は中国河北省天津市にて戦死。

平成2年(1990年)4月22日、建立。

歴史の見える丘

 戦前、ここは呉鎮守府第三門の隣接地で、戦艦大和など大型艦の建造や修理に使われた呉工廠造船部、呉鎮守府そして呉軍港全体が一望できる高台であることから、海軍用地と民有地の境界には高いレンガ塀が設置されていました。

 戦後、レンガ塀脇は草地でしたが、昭和44年(1969年)に「噫戦艦大和之塔」が建立。昭和53年(1978年)に子規句碑が移設され、昭和57年(1982年)の道路拡張工事に伴い整地され、レンガ塀も解体されて現在の姿になりました。

 整備と同時に建てられたのが「旧呉海軍工廠跡記念塔」で、この場所もその眺望から呉の歴史をたどれる高台という意味で「歴史の見える丘」と名づけられました。

 翌年には、明治期の呉の実力者澤原為綱(ためもと)翁の銅像台座が二河公園から移設されています。平成時代になってからも、戦死したアララギ派歌人渡邊直己(なおき)の歌碑、戦艦大和を建造したドッグの石を使った「造船船渠記念碑」などが建てられています。

旧呉海軍工廠跡記念塔


昭和57年(1982年)3月、建立。



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