このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記

羊ヶ丘展望台〜クラーク博士像〜
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 3年前、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」のクラーク博士像は 北海道大学 にあるものだと思っていた。 羊ヶ丘展望台 (HP)にあると知って行ってみることにした。

北海道大学の観光バス入場禁止で、新たに羊ヶ丘展望台に建立したそうだ。

BOYS,BE AMBITIOUS!!


 明治9年(1876年)7月、北海道開拓の人材育成のためにアメリカから来道したウィリアム・スミス・クラーク博士(当時マサチューセッツ州立農科大学学長)が、札幌農学校(現北海道大学)初代教頭に着任しました。

 博士が残した「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の名言が、北海道のフロンティアスピリットを代表する言葉として、全国に広がり、世々代々受け継がれてきました。

 僅か9ヶ月の札幌滞在でしたが、自然科学などの講義のほか、「右手にはペンを、左手には鍬を」という理論と実践による教育、聖書による道徳教育など当時は画期的な授業内容でした。

 翌年4月16日、北海道発展の礎を築き惜しまれつつ農学校での任を終えてクラーク博士は、教え子たちと 島松駅逓所 で別れを告げました。馬上からボーイズ・ビー・アンビシャスと叫んだ後「一鞭を与えて坂を登り、疎林の彼方に其影を没す」という訣別のシーンは、師弟愛が凝縮された感動的で格調高い一場面として記憶されています。この荒野にこだまする訣別の辞は、時代を超えて、無類の躍動感と新鮮さを、いまになお伝えております。

 クラーク博士が私たちに残してくれたものは、近代的な農業の導入といった実利面もありながら、ひときわ光彩を放っているのは、”精神の開拓者”としてです。

 この博士の精神は、新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾、佐藤昌介ら、我が国の近代における思想、文化史に、さん然と輝く先駆者たちを次々と輩出したのです。

 「丘の上のクラーク」像はクラーク博士が来道してから100年後の昭和51年(1976年)4月16日に、札幌市を一望するここ羊ヶ丘展望台に建立されました。

札幌市を一望する


歌謡碑「恋の町札幌」


浜口庫之助作詞・作曲 石原裕次郎唄

時計台の 下で逢って
私の恋は はじまりました
だまってあなたに ついてくだけで
私はとても 幸せだった
夢のような 恋のはじめ
忘れはしない 恋の町札幌

はじめて恋を 知った私
やさしい空を 見上げて泣いたの
女になる日 だれかの愛が
見知らぬ夜の 扉を開く
私だけの 心の町
アカシヤも散った 恋の町札幌

淋しい時 むなしい時
私はいつも この町に来るの
どこかちがうの この町だけは
なぜか私に やさしくするの
恋人なのね 故郷(ふるさと)なのね
ありがとう私の 恋の町札幌

ウェディングパレス


 ウェディングパレスの塔屋にある鐘はラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のモデルになった鐘です。

 この鐘は大正11年(1922年)岡本正行技師が、米国で教会用の鐘から選んで購入したもので、月寒種羊場、国立北海道農業試験場に引きつがれ、昭和42年(1967年)まで「月寒の鐘」として美しい音色を響かせ、半世紀にわたり羊ヶ丘に「刻」を知らせておりました。

 昭和23年(1948年)劇作家菊田一夫先生が、この地に取材に訪れ、夕焼けに染まったポプラ並木と羊の群れとこの鐘の音に魅せられて、有名なラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の情景として放送されました。

   緑の丘の赤い屋根
   とんがり帽子の時計台
   鐘がなりますキンコンカン
   メエ、メエ、子やぎもないてます

 毎日、午前10時、正午、午後3時に美しい鐘の音が鳴り響きます。

 どうぞお楽しみください。

社団法人 札幌観光協会

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