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新年の旅日記

鐺別神社〜高浜虚子の句碑〜
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 弟子屈町桜丘の道道53号釧路鶴居弟子屈線沿いの高台に鐺別神社がある。


 大正3年(1914年)、「青木旅館」(青木元右衛門)。

 昭和8年(1933年)8月22日、 高浜虚子 は阿寒湖から弟子屈の「青木旅館」に泊まっている。

バス来るや虹の立ちたる湖畔村

火の山の麓の湖に舟遊

      昭和八年八月二十二日 阿寒湖。此夜、弟子屈、青木旅館泊。

『五百句』

   北海道、奥しん別川橋上休憩

澤水の川となり行く蕗がくれ

      八月二十二日。此夜、弟子屈、青木旅館泊。

『五百句時代』

▼…高浜虚子が阿寒国立公園鐺別温泉(川上郡弟子屈町)を詠んだ未発表の句がこのほど同温泉聖林荘主人渡辺隆一さん(53)宅で発見された。渡辺さんはこれを一人じめするのは惜しいと、近く有志と図って句碑を建て“鐺別温泉の名所”にするという。

▼…句は「沢水の川となりゆく蕗の中=虚子」とあり昭和8年8月21日、旭川の全道ホトトギス句会のあと北見を経て同温泉青木旅館に落着いた際、当時旅館の番頭だった渡辺さんの頼みに即興を記したもの。

▼…着いた日は大雨で翌朝温泉を発つ予定だったのが、鐺別川があふれ橋が危険なので23日まで泊り川湯駅から列車で帰郷した。句はこの時の鐺別川を詠んだもので、そのころ川の両岸に密生していたフキを虚子にいわれて渡辺さんが持って行ったところ、火バチの上にいきなりナベをかけ葉もとらずユガキもせずに放り込んでショウユで味をつけむしゃむしゃ食べるのにびっくりしたそうだ。虚子は“ボクはフキのアクの強いのが好きでね”という。60歳の時のことだった。

昭和28年10月16日『朝日新聞』

高浜虚子の句碑


澤水の川となり行く蕗の中

 昭和八年八月、翁が国立阿寒公園に吟丈を曳かれたとき、同月二十一日夜、大風雨の中を、一行数名とともに弟子屈町鐺別温泉の聖林荘に来て一泊された。

 幸い翌朝はからりと晴れた。翁たちは鐺別川畔を散歩し、野生の川原蕗を摘み、手料理で食膳に上すなど、俳一家らしい団欒の一時を愉しまれた。当時、鐺別温泉は戸数五戸しかない淋しいところであった。句はその折、宿の主人に請われ、画帖に書き残されたものである。昭和三十年八月、その筆蹟を拡大して同荘庭前にこの句碑が出来た。高さ十二尺、幅六尺、厚さ一尺五寸の屈斜路湖底から得た水成岩の自然石。やがて碑側に、建碑の由来を記した副碑も設けられることになって居る。(弟子屈・渡辺隆一報)


「副碑」は無かった。

 昭和40年(1965年)ころまでは、桜ヶ丘公園の崖の隙間から温泉がしみ出して紅葉川に流れ込んでいたそうだ。

この句碑は31年発行の「虚子翁句碑」(新樹社)など何回か紹介されている。訪れる人もまばらにはあったが、次第に小さな温泉の片すみに置かれた句碑として忘れ去られたような状態になっていた。この句碑を再発見したのは、このほど同温泉を訪れた佐賀県の画家田中太郎さん。田中さんは摩周湖をキャンパスにおさめるため今月12日から同温泉「大鵬荘」に投宿しているが、すぐ向かいにあるほこりをかぶった巨大な句碑があるのを見つけ、これが虚子の有名な句碑であるのに驚いたという。田中さんは生前の虚子とは親交のある方だが、どこにも見られないような巨大な句碑に驚き、さっそく渡辺さんに会って、その建立のいきさつを聞いた。阿寒国立公園内の多くの名勝や文化財を持つ弟子屈町だが「この句碑が忘れ去られたような存在となっているのはどうしたことか」と田中さんは首をひねっている。

昭和45年9月30日『釧路新聞』

 昭和45年(1970年)11月、従業員福利厚生施設「桜ヶ丘クラブ」開設。

 その後、町文化財として桜ケ丘公園に移設しようなど、弟子屈温泉の文化的な観光資源として日の目をみせようという声もあったが、渡辺さんとの話がまとまらず保護対策も宙に浮いたまま。最後に話をもちこまれた国岡組が昨年来「このまま埋もれさせておくのはもったいない」と買い取り、渡辺さんは娘さんのいる広尾町に去っていった。

 句碑は、このほど道道弟子屈—鶴居—釧路線沿いの国岡組社員寮に移設され、手入れもされて同好者もホッとしたところ。

 風のたよりでは、句碑とともに生きた渡辺さんもことし4月に73歳で他界したという。

昭和48年7月10日『釧路新聞』

 平成3年(1991年)4月、先代國岡勝より國岡雅文に代表取締役変更。社名を「株式会社國岡組」より「クニオカ工業株式会社」に変更。

 高名な俳人、高浜虚子の句を彫った石碑がこのほど、地元の土木会社「クニオカ工業」施設内の鐺別川河畔から桜ケ丘公園内に移設された。国岡雅文社長が町教委に寄贈したもので、「多くの人に親しんでほしい」と願っている。

 石碑は昭和8年(1933年)8月に虚子が摩周湖を見るために弟子屈を訪れた際、鐺別温泉に投宿。増水した川のほとりで「澤水の川となりゆく(ふき)蕗の中」の句を詠んだ。その際したためた直筆の色紙は今でも国岡社長宅にある。

 碑は昭和30年(1955年)に同社の施設内に建立され、母親の麗子さん(68)が所有していた。しかし、周辺で橋の架け替え工事が本年度内にも始まることから寄贈を決意。合わせて50mほど離れた小高い公園に移転することになった。重さは1.5トンもあり、クレーン車を使って慎重に作業が行われた。

平成9年6月6日『北海道新聞』(朝刊)

句碑にも63年の歴史があった。

 高浜虚子は昭和8年に摩周湖を見るために訪れ、鐺別温泉「青木旅館」に投宿しました。翌日に鐺別川を散策し、小さな湧水が蕗の根本から流れている様子を詠っています。

 虚子は詠んだ句を色紙に認めて、当時旅館の番頭をしていた渡辺隆一さんに贈りました。

 その後、旅館「聖林荘」で独立した渡辺さんは、虚子の叙勲を記念して句碑を建立しました。

弟子屈町教育委員会

木下春影の句碑もあった。


生誕の孫の一声花こぶし

木下春影は細谷源二主宰の『氷原帯』同人。摩周俳句会誌『いそつつじ』主宰。

昭和57年(1982年)8月22日、木下春影家族会建立。

平成5年(1993年)、95歳で永眠。

県道沿いに二輪草が咲いていた。




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