このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』


〜那須神社〜

東北自動車道矢板ICから国道4号に入る。

国道4号を右折して国道461号(日光北街道)に入り、黒羽に向かう。


黒羽の手前の大田原は「那須与一のふるさと」。


那須神社がある。

 陸奥守源頼義が前九年の役で下向の折、子八幡太郎 義家 とともに那須神社に戦勝を祈願したと伝えられるそうだ。

那須神社楼門


 那須神社はその昔「金丸八幡宮」と号した。那須与一が扇の的を射る時、「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現・宇都宮・那須のゆぜん大明神、願くはあの扇のまンなか射させてたばせ給へ。」(『平家物語』卷第11)と心のうちに祈念したのが、この八幡大神である。

那須神社本殿


これは拝殿で、その奥にあるのが本殿なのかも知れない。

 元禄2年(1689年)4月13日(陽暦5月31日)、芭蕉は那須神社を訪れた。

 それより八幡宮に詣。与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも此神社にて侍と聞ば、感應殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。

『曽良随行日記』には、次のように書かれている。

一 十三日 天気吉。津久井氏被見廻テ、八幡ヘ参詣被誘引。

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は黒羽の館代浄坊寺 桃雪 宅から那須神社を参詣し、句を詠んでいる。

 与市宗高氏神、八幡宮は館ヨリ程近し。宗高祈誓して扇的を射たると聞ば、誠感応弥増て尊かりき。

 ○叩首(ぬかづく)や扇を開き目を閉(フサギ)


 享保元年(1716年)4月26日、稲津祇空は奥羽行脚の途上常盤潭北と那須神社を訪れている。

黒羽滝田氏のもとにやとる。惣社八幡宮 は那須与市扇の的を射たる時願念の霊神なり。鳥井物ふり輪橋瑞籬いとしつけし。


 延享4年(1747年)、武藤白尼は 横田柳几 と陸奥行脚し、途中で那須神社を訪れている。

与一扇の的を射し弓矢を奉納せし八幡宮に詣て

むかしおもふ膝に扇や神のまへ
   尼


明治6年(1973年)、那須神社と改称。

 大正14年(1925年)7月7日、 荻原井泉水 は那須神社を訪れている。

その八幡宮は与瀬のうちで、金田村大字南金丸にあり、今は那須神社と称している。桜の並木を参道として、石橋があり、古びた楼門があり、その門に続いた墻塀を以て浄域を囲うてある中に、是もかなり古い神殿がある。

『随筆芭蕉』 (黒羽、郊外に逍遥して)

私は那須神社と「 温泉神社 を混同していた。

 「芭蕉の里くろばね」と違って、那須神社には芭蕉に関することは何も書かれていない。

田や麦や中にも夏のほととぎす 」の句碑へ。

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