このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』


〜「芭蕉庵桃青君碑」〜

高久家 の裏山に「芭蕉庵桃青君碑」がある。


那須町史跡芭蕉翁塚


 ここ本郷の地は、江戸時代には黒羽藩領として高久組(現在の大字高久甲・乙・丙の地域)の支配下に置かれ、名主の管理するところであった。正保2年(1645年)、原街道が開設されると、本郷には問屋が置かれ、馬子が駄賃稼ぎのため運送に従事した。これを附子という。

 元禄2年(1689年)4月16日には、俳聖松尾芭蕉がおくのほそ道の途次、この地を訪れた。門人の曽良と共に、大田原市(旧黒羽町余瀬)を出発し、ここ高久に名主覚左衛門方に泊った。翌17日にも雨のために留まり、18日、那須の 殺生石 を見ようと松子を経て湯元へ向かった。

 この来歴を記念して、芭蕉没後61年を経た宝暦4年(1754年)8月、覚左衛門の孫、青楓が嵩雲柱文と書で「芭蕉庵桃青君碑」を建てた。その時に俳句を埋めたので、「杜鵑の墓」とも称される。この碑の左側面には「落ちくるやたかくの宿の郭公 風羅坊(芭蕉)」の句と曽良の「木の間をのそく短夜の雨」の句が刻まれている。

 高久家は、戦国期には那須家に属し、「原の七人」の一人として知られ、江戸期に入り黒羽藩より名主職を勤めた旧家である。原街道の開設とともに会津藩から問屋職に任じられ、廻米輸送に携った。

  「芭蕉懐紙」 や「写本曽良日記」を所蔵し、文学史上でも知られた家である。

 また、幕末の元治元年(1864年)11月には、水戸天狗党が西上を目指して宿泊するなど歴史の面舞台に登場してくる。

 明治に入ると、日本の近代化と共に原街道は陸羽街道、国道6号、国道4号と名称を変え、主要幹線道路へと生まれ変わった。明治42年(1909年)11月、那須野の陸軍大演習が那珂川をはさんで挙行された。このとき明治天皇は愛宕山にてこの大演習を統監された。これを記念し、大正4年(1919年)には公園として整備され、昭和9年(1934年)聖蹟に指定された。以後 高久愛宕山公園 として親しまれ、現在に至っている。

「芭蕉庵桃青君碑」


『茂々代草』 に高久青楓所蔵の芭蕉の遺墨が紹介されている。

正面の文字だけは読める。


左側面には「芭蕉懐紙」の句文が刻まれているそうだ。

みちのく一見桑門同行二人那須の篠原を尋ねて猶殺生石見んと急き侍る程に雨降り出てけれは先つ此處にとゝまり侍り候

落ちくるや高久の宿の郭公
   風羅坊

   木の間を覗く短夜の雨
   曽良

栃木県で最も古い芭蕉の句碑であろう。

ちなみに2番目は佐野女子高校にある芭蕉の あやめ塚句碑

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