このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
『奥の細道』
〜東北〜
〜月山〜
元禄2年(1689年)6月8日(陽暦7月24日)、芭蕉は
羽黒山
から月山に向かった。
八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。
『奥の細道』
ただし『曽良随行日記』では6日。
〇六日 天気吉。登山。三リ、強清水、ニリ、平清水
(ヒラシミツ)
、ニリ、高清
(高清水)
、是迄馬足叶。道人家小ヤガケ也。彌陀原コヤ有。中食ス。是ヨリフダラ、ニゴリ沢、御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。
『曽良随行日記』
強清水は三合目、平清水は六合目。
六合目までは緩やかな坂道が続き、それからうねうねとした山道になる。
高清水(現在「合清水」)で七合目。ここまで馬で行けたようだ。
八合目の駐車場から月山登山口まで、20分。そこから山頂まで約2時間30分から3時間。
弥陀ヶ原から月山山頂を望む。
芭蕉は弥陀ヶ原で昼食、午後3時半頃、月山山頂に至る。
雲の峯幾つ崩て月の山
芭蕉は頂上まで登り、山小屋に一夜を明かして
湯殿山
に下った。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は月山に詣でる。
湯殿山へ登るに、麓は青天、山は雨、漸
(やうやう)
月山
ニ
詣て、雪の巓牛が首と云岨に一宿。
[無都遅登理 五]
享保元年(1716年)7月15日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚。月山に登る。
十五日天清、東水、呂笳先達として月山 へのほる。この山諸山に甲たり。山谷草樹凡ならす、他にこと也。落日に来迎を拝す。稀々なる事のよし、いとゝ心すミて石室にとまる。山上の残雪ところところにありて肌粟をたゝす。妙浄坊青岫とふらひたまひ、あすの先達を約す。
月雪の中元にして山きよし
念仏に出てうつくしや峯の月
北
『烏絲欄』
延享4年(1747年)、横田柳几は陸奥を行脚して
湯殿山
から月山に登る。
月山
笹小屋といふ所に臥て殊更に草臥ぬれは爰に奉納の句なし
『二笈集』
草臥れるのも無理はない。
寛政3年(1791年)5月13日、鶴田卓池は月山を下り
羽黒山
に泊まる。
月山ノ頂ヨリ羽ぐろ山を九里ト云 雪多くいまだ笹室
一つも作らず 此日行人ノ外ハ人ニ不逢 雪ヲふむこと凡七里斗
されど翁ノ細道に書き給ふ山ノさくらハ蕾もちて如月半の□し
羽黒山麓ニ宿ル
『奥羽記行』
(自筆稿本)
大正14年(1925年)8月20日、
荻原井泉水
は弥陀ヶ原の小屋に泊り、月山に登った。
石道はいつか又広い草原の中に出ていた。そこに小屋があった。八合目、御田の原である。私達はそこの小屋に宿を乞うこととした。一日負うて歩いた笠と茣蓙とを身から離すと、ホッとした。
『随筆芭蕉』(月山に登る)
草薙温泉
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