このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』   〜東北〜


〜湯殿山神社〜

  蔵王温泉 から西蔵王高原ラインを通り、国道286号を経由して山形自動車道路に入る。

月山第1トンネルを抜け、湯殿山ドライブウェイで湯殿山神社に向かう。

湯殿山参籠所の駐車場に車を停め、バスで湯殿山神社へ。


湯殿山神社は、湯殿山(標高1,504m)の中腹にある。

 元禄2年(1689年)6月9日(陽暦7月26日)、芭蕉は 月山 から湯殿山に下った。

 惣て、此山の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。

語られぬ湯殿にぬらす袂かな


湯殿山銭ふむ道の泪かな
   曾良

古来「語るなかれ」、「聞くなかれ」と戒められた聖地。

句碑の場所は分からなかった。

参拝は土足厳禁、温泉の湧き出る巨岩が御神体。

湯殿山神社は写真撮影禁止。


   

語られぬ湯殿にぬらす袂かな
   
湯殿山銭ふむ道の泪かな

 昭和40年(1965年)8月24日、山口誓子は月山の頂上から湯殿山の本宮へ下りて芭蕉と曽良の句碑を見ている。

 翌日、月光坂の難所で大いに苦しんで、湯殿山の本宮へ下りた。

 本宮に近づこうとする道の右手に、句碑が上下になって立っている。上のは芭蕉の

   語られぬ湯殿にぬらす袂かな

 下のは曽良の

   湯殿山銭ふむ道の泪かな

 いずれも黒い自然石、曽良のは横へ張っている。

 芭蕉の句は小宮豊隆の書、昭和三十年の建立。

 曽良の句は素竜本「おくの細道」の字を借りたと云う。家に帰って、覆刻本(岩波書店発行)のその字と照らし合わしたが、合わない。昭和三十九年の建立。

 芭蕉の句碑はもと本宮入口の左手にあった。それをいまの位置に移し、曽良の句碑と並び立たしめたのだ。

『句碑をたずねて』 (奥の細道)

宇都宮市立城山西小学校 にも句碑がある。

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は 月山 から湯殿山奥院を参詣し、句を詠んでいる。

 早天湯殿奥院へ詣。諸国の参詣、峯渓に満々て、懸念仏は方四里風に運び、時ならぬ雪吹(ふぶき)に人の面見えわかず、黄成息を吐事二万四千二百息。

   ○大汗の跡猶寒し月の山

   ○山彦や湯殿を拝む人の声

      曽良登山の比

   ○銭踏て世を忘れけり奥院


「懸念仏」は夏行(げぎょう)して唱える念仏。

 元禄10年(1697年)、 広瀬惟然 は湯殿山を訪れて句を詠んでいる。

   湯殿山 にて

日のにほひいたゞく穐の寒さかな
    惟然


 享保元年(1716年)7月16日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚。湯殿山神社に参詣している。

十六日、湯殿 に参る。日ほからかなり。

合掌に人は朝日のおとりかな

滑川の裏や銭道きりきりす
    北


 延享4年(1747年)、横田柳几は陸奥を行脚して湯殿山を訪れている。

 湯殿山

雪踏てあつき涙の湯殿かな
   柳几


 寛政3年(1791年)5月13日、鶴田卓池は湯殿山から 月山 に登る。

湯殿山 迄八十丁

湯殿山大権現本地大日如来 此山中落たる物ヲ

取事叶ハズ 参詣ノ者ノ賽銭土砂ノ如クアリ

月山ノ頂迄三里 月山大権現本地阿弥陀仏

湯殿山ヲ恋ノ山と云

   恋の山しげき小笹の道分てわけて入初るよりぬるゝ袖かな

   恋の山入てくるしき道ぞとは踏染てより思ひ知りぬれ

   翁ノ吟 かたられぬゆどのにぬらすたもとかな

   曽 良 ゆどの山銭ふむ道のなみだかな

   翁ノ吟  雲の嶺いくつくづれて月の山

『奥羽記行』 (自筆稿本)

 大正14年(1925年)8月21日、 荻原井泉水 は「江湖のために」湯殿山のことを書いている。

それから、参拝者の誰もがするように、御神体たる霊岩の上を踏んで、温泉に足袋をぬらしつつ、その岩の頂きまで登った。温泉はそこの小さな穴から、ふつふつとして湧出て、かなり熱いのである。

『随筆芭蕉』 (月山を下る)

斎藤茂吉の歌碑もあるはずだが、分からなかった。

わが父も母もいまさぬ頃よりぞ湯殿の山に湯はわき給ふ

また来ることもあるだろう。

月山弥陀ヶ原 へ。

 2005年10月1日、朝日村は鶴岡市、藤島町、羽黒町、櫛引町、温海町と合併し、鶴岡市となった。

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