このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』   〜東北〜


〜飯坂温泉〜

 東北自動車道福島飯坂ICから国道13号に入り、県道3号で福島交通飯坂線に沿って、 飯坂温泉 へ。


福島交通飯坂線の終点、飯坂温泉駅の前に芭蕉像がある。
飯坂温泉芭蕉像

 昭和57年(1982年)1月、飯坂温泉観光協会・飯坂町史跡保存会・飯坂温泉旅館協同組合・飯坂町商工会・飯坂地区町内会連合会・湯野地区町内会連合会建立。

 俳聖芭蕉は元禄2年(1689年)江戸を出発して奥州北陸をめぐり美濃の 大垣 に着くまで150日に及ぶ俳諧修練の旅をつづけながら旅行記を「奥の細道」にまとめ後世に殘した。この紀行文はわが国の文学史上に不滅の光彩を放っている。

 旅の途次芭蕉は門弟曽良と共にまだ温泉場としての形態を整えていない当時のひなびた飯坂温泉を訪れている。

 飯坂の城主佐藤庄司基治の菩提寺 「医王寺」 を訪ね、 源義経 に従って転戦し討死した基治の息子継信忠信兄弟の功に耳を傾け、継信忠信の死を悲しむ母を慰めるため、二人の嫁が夫の甲冑を身につけて凱旋のさまを粧った話に涙を流し

    笈も太刀も五月にかざれ紙幟

の一句を残した。

 然し飯坂の泊りは雷雨降り持病もおきて寝苦しい一夜であった様である。

 このたび飯坂温泉の住民挙げてのご協力と日展評議員彫塑家太田良平氏の特別のご理解ある制作により、ここに芭蕉の像を建立し史跡を永くとどめる次第であります。

 元禄2年(1689年)5月2日(新暦6月18日)、芭蕉は飯坂温泉に泊まった。

 其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に筵を敷てあやしき貧家也。灯もなければゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤蚊にせゝられて眠らず。

川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。 村ノ上ニ 庄司館跡 有。下リニハ福嶋ヨリ佐波野・飯坂・ 桑折 ト可行。上リニハ桑折・飯坂・佐場野・福嶋ト出タル由。昼より曇、夕方より雨降、夜ニ入、強。飯坂ニ宿、湯ニ入。

『曾良随行日記』

 当時は「飯塚」と言ったようだ。『奥の細道』で芭蕉が温泉に入ったことを書いているのは、この飯坂温泉と鳴子温泉 、 山中温泉 の3つだけ。

飯坂温泉の 滝ノ湯跡 に「俳聖松尾芭蕉ゆかりの地」の碑がある。

摺上川に十綱橋が架かる。

十綱橋由来

 みちのくの とつなの橋に くる綱の

   絶やすも人に いひわたるかな   千載集

 平安の頃、この地に藤づるで編んだ吊橋がかけられていた。文治5年(1189年)大鳥城主佐藤元治は、義経追討の鎌倉勢を迎え撃つため、この橋を自らの手で切り落とし、石那坂の合戦に赴いた。その後は両岸に綱をはり舟をたぐる「とつなの渡し」にたよったが、摺上川はたびたび氾濫する川で、舟の往還にも難渋した。

 明治6年(1873年)盲人伊達一、天屋熊坂惣兵衛らの努力によりアーチ式の木橋が架けられ「摺上橋」と命名されたが、1年ほどして倒壊、同8年に宮中吹上御苑の吊橋を模して10本の鉄線で支えられれた吊橋が架けられ「十綱橋」と名づけられた。大正4年(1915年)橋の老朽化に伴い、当時としては珍しい現在の十綱橋が完成された。昭和40年(1965年)に大補修が加えられ、飯坂温泉のシンボル的存在となっている。

 飯坂の はりかねばしに 雫する

   あづまの山の 水色の風   与謝野晶子

福島飯坂ライオンズクラブ

 元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、飯坂温泉に泊まっている。

是より 庄司の館 の跡丸山といふを見て。飯坂といふ所に宿る。此所温泉あり。足の痛もあれば。ひと日ふた日浴し。夫より葛の松原に懸る。


 延享4年(1747年)、横田柳几は陸奥を行脚し、飯坂温泉に入っている。

   飯阪の温泉に入て

萍の身や湯壷にも尻ためず
    几


 明和元年(1764年)、内山逸峰は鯖湖湯に泊まり、歌を詠んでいる。

 それよりも鯖湖の御湯といふにやどる。此出湯は歌枕なれば、わざと求めてぞとまりける。身のいたみの有けるも出湯あみければ、よろしくぞ覚えければ、

   やむをめぐむ神こそまさめいざやさばこのみゆる山の奥をたづねん


 明治26年(1893年)7月25日、正岡子規 は福島から人力車で飯阪温泉に赴く。

 福歸路殆んど炎熱に堪へず。島より人車を驅りて飯阪温泉に赴く。天稍曇りて野風衣を吹く。涼極つて冷。肌膚粟を生ず。湯あみせんとて立ち出れば雨はらはらと降り出でたり。浴場は二箇所あり雑沓芋洗ふに異ならず。

      夕立や人聲こもる温泉の煙

二十六日朝小雨そぼふる。旅宿を出でゝ町中を下ること二三町にして數十丈の下を流るゝ河あり。摺上川といふ。飯坂湯野兩村の境なり。こゝにかけたる橋を十綱の橋と名づけて昔は綱を繰りて人を渡すこと籠の渡しの如くなりけん。古歌にも

      みちのくのとつなの橋にくる綱の

            たえずも人にいひわたるかな

など詠みたりしを今は鐡の釣橋を渡して行來の便りとす。大御代の開花旅人の喜びなるを好古家は古の様見たしなどいふめり。

      釣り橋に亂れて涼し雨のあし


 飯坂温泉共同浴場「鯖湖湯」に与謝野晶子の歌と正岡子規の句が並刻されている。


わがひたる寒水石の湯槽にも

   月のさしたる飯坂の里
   与謝野晶子

夕立や人声こもる温泉のけむり
   正岡子規

 明治44年(1911年)8月7日、 与謝野晶子 は飯坂温泉を訪れた。

 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、飯坂温泉に泊まった。

 此の飯坂に於て、土座にむしろ敷きたる、あやしき貧家に芭蕉翁は持病を抱いて明かした。今の飯坂は東北屈指の温泉場、昨夜の暮、何處に泊らう、あの柳のある家にしようと云つた其宿は、此町の第3、4流のものか知れぬが、川に臨んで三層をたゝみ、なかなか立派な構え、夜は酒くみかはし、朝も朝酒名物箱入納豆をしたゝかに参つて、鼻唄交りに立つて來た、


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