このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』   〜東北〜


 〜清川小学校〜

白糸の滝 から最上川に沿って国道47号を下る。

立矢沢川を越えると、清川小学校がある。


清川小学校に芭蕉像がある。


平成2年(1990年)7月、建立。

芭蕉上陸の地


ここは『奥の細道』芭蕉上陸の地である。

松尾芭蕉と清川

 俳聖芭蕉は、元禄2年(1689年)6月3日 本合海 よりこの地に上陸し、狩川を通って羽黒に向かいました。

五月雨を集めて早し最上川

 この名句は、その舟の中で作ったものといわれています。

 清川は往時、最上川の水駅として栄え、この地に清川関所がありました。

 その当時を偲ぶものは、榎の古木と隣の井戸だけになってしまいました。

明治7年(1874年)8月、清川関所の番所に清川学校を開設。

井戸


元禄2年(1689年)6月3日は、新暦7月19日。

 〇三日 天気吉。新庄ヲ立。一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル。

 一リ半、古口ヘ舟ツクル。合海ヨリ禅僧ニ人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。

『曽良随行日記』

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は最上川を下り、清川関所のことを書いている。

 此川筋坂田迄二十一里、川の中、船関四ヶ所アリ。尤大石田宿よりの手形、右の所々にて入。能聞繕乗べし。なぎ沢・清水・古口・清川、此四所なり。


 宝暦10年(1760年)4月21日、山形の俳人雨声庵山皓は清川の旅籠に泊まった。

清川 に着て今宵は旅篭屋に入りぬ。相宿に芝居なる者の卅人ばかり、終夜三味せん引。ばくち打いとさはがしきに、我は伴ふ人もなければ、片住なる小座敷に木枕を友として宵より臥しぬ

生薪の馳走もありて蚊やりかな


 明治40年(1907年)10月12日、河東碧梧桐は 本合海 から最上川を下り清川で上陸した。

 清川上陸

にわか雨も冬の近さや西風も


 清川小学校には加藤楸邨書の芭蕉句碑があるはずだが、雪でわからなかった。

後日、写真を撮りに行った。


五月雨を阿ツめて早し最上川

昭和31年(1956年)、建立。

 昭和31年(1956年)6月5日、高浜虚子は羽黒山に向う途中で清川を訪れている。

 芭蕉は清川といふ處で舟をあがつたものらしい。私等もその芭蕉の下りたといふ舟著場らしい跡を見た。


平成21年(2009年)3月、清川小学校閉校。

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