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私の旅日記
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2013年
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千波湖
〜徳川光國公像〜
偕楽園東門から坂を下り、偕楽橋を渡る。
桜川のほとりに長塚節の歌碑があった。
長塚節
(1879〜1915)歌人・小説家
結城郡石下町に生まれる。茨城県尋常中学校(水戸第一高等学校)に進学したが、病気のために中退。
正岡子規
(
「水戸紀行」
があり、偕楽園に句碑がある)に師事し、多くの短歌・小説・写生文を残す。近代日本を代表する歌人であり、小説『土』の作者としても有名。
那珂川ニ網曳ク人ノ目モカレズ鮭ヲ待ツ如君待ツ我ハ 長塚節
明治37年(1904年)9月作。中学時代の親友滝口述が日露戦争に出征し負傷した。その時の見舞いの手紙に添えられた短歌15首中の1首。碑文はその手紙から採った。
那珂川に帰ってくる鮭を漁師がいまかいまかと川面から目を離さずに待つように、私は君が元気で帰って来るのを待っている、と水戸時代に親しんだ那珂川を詠み込んで友との再会を願う気持ちを歌っている。
桜川を渡る。
徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像
徳川斉昭は水戸藩第九代藩主。諡号は烈公。
天保12年(1841年)、藩校「弘道館」を創設。
天保13年(1842年)、
偕楽園
を造園した。
七郎麻呂は斉昭公の七男、第十五代将軍慶喜。
平成11年(1999年)11月、除幕。
徳川光國公像
昭和59年(1984年)3月、建立。
水戸黄門で知られる
徳川光國
卿は今を遡ること三百数十年、寛永5年水戸城で柵町の家老三木之次の家で生まれた。父は徳川家康の第十一男水戸藩祖頼房、母は谷久子。5歳にして世子に挙げられ、34歳の時御三家水戸第二代藩主となり、その職にあること30年。元禄3年、兄高松藩主頼重の子綱條に跡を譲り、多年の念願を果たして引退した。翌年、水戸の北太田の西山に隠栖して凡そ10年、元禄13年良き家臣に恵まれ、73歳の波乱曲折の生涯を終った。生前の行實により義公と謚された。殉死の禁止、社寺改革、扶弱抑強の令等、藩政上の治績のほか、世子時代に志した彰往考来の意に基づく大日本史の編纂では、史臣を全国各地に派遣して旧記古文書を収集するなど、史料尊重の方針を貫いた。また下野国での古墳発掘や各地の史跡古碑等の保存に努めたことなど、文化財保護の上から今日その価値が再認識されるに至った。庶民に対する思い遣りの民政と大胆な文化行政によって、近世大名中異色の存在であった卿は、太平無事の世の英雄と評された。卿晩年の姿を模した此の像は、多くの人々の浄財によって完成し、湖畔はるかに生誕の地を望んでいる。
千波湖
嘉永5年(1852年)12月26日、吉田松陰は千波湖の西、東を廻る。
千波湖の西を過ぎ高陵に登る、平原あり、蓋し操塲なり。車丹波の祠を拜す。車は佐竹氏の臣なり。佐竹氏徙封
(しほう)
の時、壁
(とりで)
を嬰
(まも)
り戦死すと云ふ。彌八の母中田氏は實に丹州の裔
(すえ)
なり。
千波湖の東に出で、城の東北を繞りて還る。城は初め常陸大掾國香之れに居り後に江戸氏・佐竹氏更に之れを取る。千波湖・那珂川環
(めぐ)
險を爲せり。
『東北遊日記』
明治22年(1889年)4月3日、正岡子規は友人と二人で学友菊池謙二郎を訪ねて水戸へ徒歩旅行をした。
左は十間許りのがけにして此がけの下は直ちに仙波沼なり。此沼には限らず此近邊には沼多し。沼の水は深くはあらされとも一面に漲
(みなぎ)
れり。こは灌漑の用に供するために今より水門を閉ぢてたくはへおくによるものにてさなき時は水乾
(か)
れてきたなしとぞ。
「水戸紀行」
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