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私の旅日記2008年

多太神社〜斎藤実盛の兜〜
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金沢から小松へ。

小松市上本折町に多太神社がある。


多太神社


多太神社は 延喜式内社

 寛弘5年(1008年)、船津松ヶ中原にあった八幡宮を合祀し多太八幡宮と称した。

天和3年(1683年)、大淀三千風は多太神社を訪れた。

 安宅の關の舊跡。又多田八幡宮には火威の鎧菊ガラクサの甲、これ實盛がかたみいとなつかしかりし。


斎藤実盛の兜


 八幡さまの兜、兜の八幡さまといわれる当社は、遠く平安時代の初め、延喜式内社として登録されている古く由緒ある神社である。

 社宝の兜は、寿永2年源平の合戦に 篠原 で白髪を染めて戦い、華々しく散った平家の老将斎藤実盛の着用したものである。 木曾義仲 が実盛の供養と戦勝を祈願して、当社に奉献したもので、国の重要文化財に指定されている。

むざんやなかぶとの下のきりぎりす

 芭蕉がこの兜によせた感慨の句である。

齋藤別當實盛公


實盛公の像は埼玉県熊谷市の 妻沼聖天山 にもある。

 此所、太田の神社に詣。実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士(ひらさぶらい)のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。

むざんやな甲の下のきりぎりす

『奥の細道』

芭蕉の句碑


あなむざん甲の下のきりぎりす

出典は 『卯辰集』

 芭蕉翁一行が多太神社に詣でたのが300年前の元禄2年(1689年)7月25日(9月8日)であった。

 7月27日、小松を出発して山中温泉に向う時に再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。

あなむざん甲の下のきりぎりす
   芭蕉

幾秋か甲にきへぬ鬢の霜
   曽良

くさずりのうち珍らしや秋の風
    北枝

 享保6年(1721年)、露川は門人燕説を伴い多太神社に参詣して実盛の甲冑を見ている。

  八幡 に詣でゝ實盛の甲冑を見る。

空蝉のなみだや生た時よりも
   同

麥畑の音にこそ鳴かねかぶと虫
   無外


 大正14年(1925年)8月30日、 荻原井泉水 は多太神社を訪れて実盛の冑を見ている。

その冑は多分、古色蒼然たるものであろうと想像していたのに、みればしころなどの色彩も鮮かに、新しそうな感じのするものだった。というわけは、原物が余りに頽破して手に持つことも出来ぬほどになったので、近頃すっかり修覆をして出来上ったばかりの所なのだというのである。

『随筆芭蕉』 (小松という所)

 昭和40年(1965年)、 山口誓子 は多太神社で句碑を見ている。

 上本折町の多太神社へも行った。町筋が二股に別れようとする左側だ。ずっと奥まっている。社殿の前に、角張った自然石の句碑がある。

   あなむざん甲の下のきりぎりす

『句碑をたずねて』 (奥の細道)

参道の芭蕉像


奉納吟

むざんやな甲の下のきりぎりす

 元禄2年(1689年)、松尾芭蕉が北陸路を金沢より小松へ入ったのは、旧暦の7月24日であった。

 地元俳人の熱い思いを断りきれず、泊を重ね、句会を開いた。

 多太神社に詣で、斎藤別当実盛着用の兜や袖を拝観した。源氏に愛着をもっていた芭蕉は、木曾義仲と実盛との数奇な巡り合わせに感慨ひとしおであっただろう。その思いが冒頭の句となり、奉納した。あわせて、共の2人も詠んでいる。

幾秋か甲にきへぬ鬢の霜
    曽良

くさずりのうら珍らしや秋の風
    北枝

 それより山中温泉へと旅を重ねるが、再度小松へ戻る。紀行中異例の足どりを残す。

当多太の社では、この史話を後世に伝えるために、7月下旬「かぶと祭り」を催している。

 平成14年9月

加南地方史研究会 撰文

参道にも芭蕉の句碑があった。


むざんやな甲のしたのきりぎりす

平成15年(2003年)9月、平成未申会建立。

本折日吉神社 へ。

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