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私の旅日記

志度寺〜山頭火の句碑〜
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さぬき市志度の 志度寺 (HP)に行ってみた。


真言宗 善通寺派の寺である。

四国八十八ヶ所 霊場 第86番札所

補陀洛山 志度寺

本尊
 十一面観世音菩薩

脇士
 不動明王 毘沙門天

由緒(文・志度寺)

 仏教が、幾多の文化とまじわり困難を乗り越えながら日本へ伝来(538年)した後、讃王の時代には、寺に縁のある近江の越の凡薗子(おうしのそのこ)が「見仏聞法」に目覚め、推古33年(625年)には、補陀洛渡海信仰に始まり、観音浄土の瀬戸の入口として十一面観世音を新たに刻んで観音堂を造立し開創。

 亡き母の追善菩提のために藤原不比等の次男房前(ふさざき)公が、 行基 に法華八講の修法を営ませて堂宇を建立、千基の石塔群に自ら写経して経塚に奉納したものが、現在の海女の墓である。

 これらの史跡を伝えながら、行基、最澄、空海、覚阿、阿一入道が堂宇を修復し、細川頼之・勝元公の護持、藤原家末裔の生駒親正(ちかまさ)公等の支援を得て、法相宗・天台寺・浄土宗・ 真言宗 と時代により変遷しながら、初代高松藩主松平頼重が堂塔を寛文11年(1671年)に寄進造営されて今日に至った古刹である。

 一万坪の広い境内には、人形浄瑠璃で有名な「花上野誉碑(はなのうえののほまれのいしぶみ)」の舞台となった奥書院、またその南側には池水を巡らした回遊式庭園、枯山水式の無染庭等がある。

 東側の宝物館には、志度寺の歴史を偲ばせる仏像・古文書・古美術等、国重要文化財等を収蔵している。

仁王門


国指定重要文化財

 明治43年(1910年)10月12日、河東碧梧桐は志度寺の宝物を見ている。

東讃見物のため志度に来た。同人の案内で、松岡氏の考古資料、平賀源内の旧宅、志度寺の宝物等を見た。松岡氏の先考が、実物を蒐集して、それによって神代の事跡を明かにせんとした期図は、大いに要を得たというてよい。


 元暦2年(1185年)2月21日早朝、平家は志度寺に立て籠もる。 義経 はいち早く察知し、80余騎を引き連れて志度へ急行。

 2月21日 乙亥

 平家讃岐の国志度の道場に籠もる。廷尉八十騎の兵を引きい、彼の所に追い到る。平氏の家人田内左衛門の尉廷尉に帰伏す。また河野の四郎通信、三十艘の兵船を粧い参加す。義経主すでに阿波の国に渡る。熊野の別当湛増源氏に合力せんが為同じく渡るの由、今日洛中に風聞すと。


五重塔


昭和50年(1975年)5月18日、落慶。

貞亨2年(1685年)、大淀三千風は志度寺を参詣。

○志度の里。渡邊氏につく。きこふる房崎のうらめづらしく。補陀洛山志度寺の觀音は。園の小尼光明木を波より揚。しらぬ翁の刻給ふとの。靈驗たぐひなし。名翰の畫傳記。什物いかめしう。佛閣巍々。現住所望に長編せし。略。

      ○玉島や松のかづぎし律の調(こゑ)


延享3年(1746年)、 佐久間柳居 は志度寺を訪れているようである。

   志渡寺

その蜑の子孫ならねと墓まいり


本堂


国指定重要文化財

寛政3年(1791年)4月、蝶夢は志度の浦を通る。

房崎の入江といふ志渡志度の浦をすぐるに、ある家より僧達に御宿參らせんとよぶ、うれしと入て見るに、此家は四國遍路といふ修行者に供養をなすがためなれば、殊にすけをとむる也、さる行者のならひに宿ぬしは一夜をかし薪をほどこすのみにて、飯は修行者のみづからかしぎて喰ふ法とぞ、伴ひしものと共に米あらひ水くみて、思ふに江口の君の哥よみかけし風情にかよひて、まことに捨人の宿るべきは今宵の宿なりけり。

短夜も心とまらぬやどり哉
   蝶夢

『四國に渉る記』

順礼の団体が続く。

 昭和6年(1931年)10月11日、 与謝野寛・晶子夫妻 は別府から神戸まで瀬戸内海を船で行く。

志度の寺白峰それら今よりも氣遠くならん船を出でなば

「沙中金簪」

本堂の前に山頭火の句碑があった。


月の黒鯛ぴんぴんはねるよ

 昭和14年(1939年)10月25日、 山頭火小豆島 から高松に渡り、 屋島 から志度寺、 長尾寺 、大窪寺を巡拝している。

無染庭


ここは人がいなかった。

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