このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街 道中山道


神流川の渡し

旧中山道は上里町神保原町で国道17号と交差する。


中山道

 中山道は江戸と京都を結ぶ街道で、江戸時代以降五街道の1つとして整備が進められました。

 金窪村(現上里町大字金久保)は、江戸から12里余、文政期(1818年から)の家数は162軒、絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。新町宿への直道ができるまでは、陽雲寺の東で北へ向きを変えて 角渕 (現群馬県玉村町)を経て 倉賀野宿 へ向かっていました。

 この道は三国街道とか伊香保街道と呼ばれていました。 新町宿 が設けられたのは、中山道中最も遅い承応2年(1653年)頃です。

 勅使河原町(現上里町大字勅使河原)家数は280軒。絵図では武蔵国最後の一里塚が見えます。現在の街道は、ここで国道17号線と合流します。川のたもとには一般の高札と川高札が並んでいた事がわかります。左奥には神流川畔に建てられていた見透燈籠が移築されている 大光寺 が見えます。

上里町教育委員会

旧中山道は上里町勅使河原で国道17号と合流する。


手前に小さな祠があった。


祠の左に小さな「一里塚跡」の碑があった。


昭和49年、上里町教育委員会建立。

江戸から13番目の一里塚であろう。

支蘇路ノ駅本庄宿神流川渡場


上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)が見える。

板橋のたもとに見透燈籠がある。

現在の見透燈籠


レプリカである。

享和2年(1802年)4月5日、太田南畝は神流川を渡り、武蔵の国へ。

芝原を左右にしつゝゆきて神奈川をわたる。河原ひろければ仮橋二つばかりわたる。これ上野国と武蔵との堺なりときくもうれしく、一年の役つゝがなくして、わがうぶすな国にかへりぬる事をよろこぶ。


神流川に架かる鉄橋


神流川を渡ると、群馬県。

「神流川古戦場跡」 の碑がある。

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