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芭蕉の句碑
『奥の細道』
〜東北〜
〜可伸庵跡〜
世の人の見付ぬ花や軒の栗
須賀川の芭蕉記念館から軒の栗通りを行くと、可伸庵跡があった。
軒の栗(可伸庵跡)
芭蕉は元禄2年(1689年)陰暦4月22日に須賀川を訪れ
相楽等躬
宅に滞在した。この可伸庵を訪ねて、「此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有」「世の人の見付ぬ花や軒の栗」と『奥の細道』に書留めている。
「軒の栗」の句碑は、文政8年須賀川の俳人
石井雨考
が建立した。
現在の栗は4代目で相楽氏の寄贈である。
須賀川市
可伸は俳号栗斎。俗名、簗井弥三郎。相楽等躬の屋敷の一隅に庵を結んで隠棲したと伝えられる僧。
『奥の細道』(軒の栗)
昭和34年(1959)4月22日、須賀川市建立。
此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやと閒に覚られて、ものに書付侍る。其詞、
栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。
世の人の見付ぬ花や軒の栗
『奥の細道』
4月24日(陽暦6月11日)、芭蕉は昼過ぎに可伸庵を訪れる。
一 廿四日 主ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニ而会有。会席、そば切、祐碩賞之。雷雨、暮方止。
『曽良随行日記』
「祐碩」は江戸の人。吉田祐碩。俳号等雲。
可伸庵で歌仙を巻く。
桑門可伸のぬしは栗の木の下に庵をむすべり、伝聞、行基菩薩の古、西に縁ある木成と、杖にも柱にも用させ給ふとかや。隠栖も心有さまに覚て、弥陀の誓もいとたのもし
隠家やめにたゝぬ花を軒の栗
翁
稀に蛍のとまる露草
栗斎
切くづす山の井の井は有ふれて
等躬
畔づたひする石の棚はし
曾良
『俳諧書留』
宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は可伸庵跡を訪れている。
○須賀川
世の人の見付ぬ花とありし庵地は畠になりぬとあるしの桑名氏に教られゆかしく草鞋を踏つゝ至て今の穂を見るも又西方に便ありけり
尋來て見付た栗や菴の跡
『露柱先師懐玉抄』
可伸庵跡に芭蕉の句碑があった。
世の人の見付ぬ花や軒の栗
文政8年(1825年)8月、
石井雨考
建立。
『諸国翁墳記』
に「
翁 塚 奥州須賀川 雨考・竹馬・英之・阿堂建之
」とある。
雨考は須賀川の人、通称勝右衛門。俳諧を二階堂桃祖に学ぶ。
文政10年(1827年)7月6日、79歳で没。
明治26年(1893年)7月21日、正岡子規は須賀川を訪れている。
須賀川に道山壯山氏を訪ふ。此地の名望家なり。須賀川は舊白川領にして古來此地より出でたる俳人は可伸等躬雨考
たよ女
なり。郡山に宿る。
『はて知らずの記』
従是西白川領
道山壮山は通称三次郎。幼名荘吉。山辺清民の門人。道山草太郎の祖父。
明治26年(1893年)10月17日、芭蕉二百年の祭典を施行して猪苗代町長浜に
芭蕉の句碑
を建立。
道山壮山書。
軒の栗庭園
へ。
『奥の細道』
〜東北〜
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