このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
萩原堤
〜種田山頭火の句碑〜
熊本からJR鹿児島本線で八代へ。
八代市萩原町1丁目の球磨川沿いに萩原堤がある。
萩原堤から見た球磨川
名勝
萩原堤
この堤防は加藤右馬允
(うまのじょう)
正方が松江の地に新しく八代城を築くに当たり、球磨川の洪水から城下町を防護する重要な水衝部に強固な堤防とそれを補強するため「天神七刎」を築いた。
加藤家改易後、細川三斎、松井家代々当主は堤防に松を植え、のちに「松塘」といい、その景観は「八代八景」にも詠まれる名勝地であった。宝暦5年(1755年)6月の大洪水で決壊したが、郡目付稲津弥右衛門頼勝によって修復された。今も4つの刎跡が残っている。
八代史談会・(財)宮崎利治学術財団
萩原堤に
種田山頭火の句碑
があった。
このみちやいくたりゆきしわれはけふゆく
自由律の俳人として知られた
種田山頭火
は、昭和5年9月9日熊本を発ち、八代萩原塘の吾妻屋に1泊したあと、宮崎・鹿児島・大分方面へと行乞の旅を続けた。それまで書きためていた日記を出発直前に焼き捨てているため、わたしたちが今日読むことのできるのもは山頭火が思いも新たに旅へ出た日に八代の宿で書き記した部分からである。その意味では、八代は山頭火再生の地と称しても過言ではない。新たに書き起こされた日記の冒頭を飾る句が、「このみちや/いくたりゆきし/われはけふゆく」である。
八代山頭火句碑建立期成会では、記念すべきこの句を碑面に刻み、見晴らしの良いここ萩原塘に据えることで異色の俳人の文学的業績と放浪・漂泊の生涯を後世に伝えようと発起した。愛媛県松山市の大山澄太先生の御尽力により句碑本体には伊予の青石を用い、碑文は日記の文字を拡大複写することができた。また、会員が五木村より取り寄せた石で台座をかため、石のベンチも据えた。この場所が山頭火ファンのみならず広く市民の方々から親しんでもらえるよう、心から祈念するものである。
八代史談会・(財)宮崎利治学術財団
平成2年(1990年)9月9日、八代山頭火句碑建立期成会建立。
このみちや いくたりゆきし われはけふゆく
しづけさは 死ぬるばかりの 水がながれて
九月九日 晴、八代町、萩原塘、吾妻屋(三五・中)
私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の行き方はないのだ。
七時の汽車で宇土へ、宿においてあつた荷物を受取つて、九時の汽車で更に八代へ、宿をきめてから、十一時より三時まで市街行乞、夜は餞別のゲルトを飲みつくした。
同宿四人、無駄話がとりどりに面白かつた、殊に宇部の乞食爺さんの話、球磨の百万長者の慾深い話などは興味深いものであつた。
『行乞記(一)』
少し離れて「宮崎八郎戦没ノ碑」があった。
此処萩原堤一帯は、明治10年
西南の役
に於て
田原坂
と共に多数の死傷者が出た激戦地である。
当時、熊本協同隊の参謀長であった宮崎八郎は薩摩軍を応援して奮戦したが、4月6日の拂暁遂に此の地で戦没した。時に弱冠27歳であった。
因みに、後年中国革命の父孫文と交友深く活躍した宮崎滔天は、その実弟にあたる。
茲に一同相諮り、その遺跡を後世に伝うべくこの碑を建立するものである。
平成元年(1989年)4月6日、八代市萩原老人クラブ建立。
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