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私の旅日記

富岡城〜勝海舟と頼山陽〜
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苓北町富岡の富岡城へ。

二の丸石垣


富岡城

 かつて苓北町は、数百年に渡り天草の中心として栄えた。1205年からおよそ400年もの間、志岐氏が統治する時代が続き、戦国時代末期には志岐麟泉が領主となって全盛期を迎える。その後、徳川時代には 唐津 藩によって統治され、肥前唐津藩の寺沢志摩守広高によって慶長7年(1602年)頃に、富岡城が築かれた。世間では本城の唐津城を「舞鶴城」、支城の富岡城を「臥龍城」と呼んだ。

 寛永14年(1637年)「天草・島原の乱」で、富岡城は幕府側の拠点として一揆軍から3回の攻撃を受けたが、唐津藩の必死の守りで落城を免れた。このことが、乱の早期終結と後の徳川幕府の安定をもたらしたといわれている。

 乱後、山崎甲斐守家治の領地となり、築城の名手と謳われた山崎氏は、大規模な修築及び拡張を行い、現在見られる富岡城の形が完成した。この時期、江戸幕府は海外列強の侵略を恐れて、鎖国政策を進めており、乱を契機に外洋に面した国内最西端の富岡城を、列強からの守りの最前線基地として位置づけたものと思われる。山崎氏の後に天草は天領となり初代代官・鈴木重成(しげなり)、重辰(しげとき)の時代を迎える。後に再び私領となり、戸田忠昌(後に老中に昇進する)が城主となるものの、戸田氏の領地替えの際に富岡城は破壊。再び天領となって、天草行政の中心となりました。

 現在、富岡城の本丸跡に「熊本県富岡ビジターセンター」を開設。さらに櫓・高麗門・白塀等が復元され、当時の面影を偲ぶ事ができます。

二の丸へ


 嘉永3年(1850年)12月7日、 吉田松陰 は長崎遊学の帰途、富岡城址を見ている。

一、二日  晴。船を棄て陸に上り、江間久右衛門を訪ひ、富岡の古城址を見、陸行して二重に至る。島中多く砂糖黍を植う。又馬多し、但し少し小なり。


「日本の恩人」勝海舟と頼山陽の像


「天草の恩人」鈴木重成と鈴木重辰の像が見える。

勝海舟

 幕府倒壊後の処理を一身に担い、新政府側の中心人物であった西郷隆盛と会見して江戸城の無血開城を果たし、江戸の町を戦火から救ったことは余りにも有名です。

 一方で、 坂本竜馬 の師としても知られます。竜馬は江戸で、勝海舟から、海軍構想を聞かされて心服し、即座に入門しました。文久3年(1863年)4月に開設された海軍塾では塾頭を務め、勝の片腕となりました。

 勝海舟は、安政3年(1856年)10月、長崎海軍伝習所の訓練中に観光丸で富岡に来航しました。この時、宿泊した鎮道寺の御堂の柱に「日本海軍指揮官 勝麟太郎」との肩書きをつけて自分の名を落書(らくしょ)しています。当時、彼は伝習生にすぎず、若くして将来の日本を担う気構えを示したものと思われます。彼は、翌年3月にも再訪し、今度は別の柱に「蒸気の御船にのりて再び爰に旅寝せしかば 頼まれぬ世を経れども契りあれば再びここに月をみるかな」との墨書を残しました。当時、寺の者が、柱の落書を洗い落とそうとした逸話が残っています。なお、この時の一行は海舟と共に榎本武揚、五代友厚、お雇い教師カッテンディーケ(後のオランダ海軍大臣)等、そうそうたる14名のメンバーでした。

頼 山陽

 著作『日本外史』は、幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えました。

 戦国大名武田氏と上杉氏の天下分け目の合戦「 不識庵撃機山図 (川中島)」を詠んだ詩人としても知られています。

 文政元年(1818年)8月、頼 山陽は西遊の途中、長崎から茂木を経て、当時、富岡の城下に開塾していた儒者の渋江龍淵(りゅうえん)を訪ねました。

 その時、西海天草灘の展望を吟じたのが、「泊天草洋」です。この名吟で天下に、その名を知らしめることになりました。

 山陽がいかに天草の美しさに感動したかがわかります。

   泊天草洋
      天草洋に泊る

雲耶山耶呉耶越
   雲か山か呉か越か

水天髣髴青一髪
   水天髣髴 青一髪

万里泊舟天草洋
   万里舟を泊す 天草の洋

煙横篷窓日漸没
   煙は篷窓に横たわって 日漸く没す

瞥見大魚波間跳
   瞥見す 大魚の波間に跳るを

太白当船明似月
   太白 船に当たって 明るきこと月に似たり

本丸へ


二の丸を見下ろす。


雲仙が見える。

市街を見下ろす。


袋池が見える。

袋池の畔に 「民宿一休」 がある。

 明治40年(1907年)8月8日、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人は長崎港から富岡港に上陸した。

波静かなる富岡港に上陸した。細長い小半島の終点に富岡城の趾がある、細長い町を挾んで西は外界の波が荒れている、東は嘘のように平な内海である。町長松本氏から天草の乱に関する諸々の事を聞く。話の序に、ピヤアロンの事が出た。美しく飾られた幾艘の船が更に幾十艘の小船の勢援の下に行ふ支那流のレガッタであるさうな、普通五月の節句にやるのだといふ。天草の乱の時独り此の城が陥らなかったといふ様な話を聞いた。又武田氏の蔵書「天草記録」と云ふ写本を読んだ。


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