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私の旅日記
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2014年
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興禅寺
〜山頭火の句碑〜
木曽町福島に興禅寺という寺がある。
興禅寺勅使門
萬松山 興禅寺
臨済宗妙心寺派
木曽義仲
公、木曽の領主木曽家代々、木曽代官山村家の菩提所で、木曽三大寺の一つである。
当寺は、承亨6年(1434年)木曽義仲追膳供養のため、木曽家十二代信道公が荒廃していた寺を修復再建し、開山には、鎌倉建長寺開山蘭渓道隆五世の孫、圓覚太華和尚を迎えた。よって、信道公を開基、太華和尚を開山としている。
明応5年(1496年)叔雅和尚の代に木曽家十六代義元公(叔雅和尚の父)の庇護を受けて大いに発展した。これにより、義元公を中興開基、叔雅和尚を中興開山としている。
本堂をはじめ諸堂宇は、昭和2年の福島大火によって全焼し、後に復興したものである。
・勅使門 室町時代の建築様式で、明治43年に保護建造物(重要文化財)に指定されていたが、大火によって焼失したため、昭和29年に原形通りに復元したものである。
・観音堂 昭和30年の再建。
義仲公木像(焼失)の体内仏を安置する。推古時代の作と伝えられる金銅仏である。
・看雲庭 枯山水の庭としてしては東洋一の広さである。禅宗庭園として昭和37年に現代作庭家の巨匠重森三玲氏によって造られた。
・万松庭 池泉水の庭園で江戸時代中期金森宗和の作である。
・宝物殿と庭園 平成11年、開山太華和尚六百年遠諱記念事業として造られた。
書画、什物等を展示している。
・昇龍の庭(登竜門)親子三体の龍が昇天する姿を滝上部に、下部にはこれから龍となろうとする鯉魚石を表現している。
・須弥山の庭(九山八海の庭)須弥山は仏教の宇宙観で、須弥山を囲む九つの山と八つの海からなり、一つの石でいくつもの山々を表現したものを九山八海石という。この庭は、九つの山を石組みで表している。
・天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原の北条氏平定の頃、細川幽斎公が立ち寄ったゆかりの寺である。
元総理大臣細川護煕氏揮毫の碑がある。
・木曽踊り発祥の地 木曽信道公が祖先義仲公供養のために始められた。甲冑に身を固めた行列が、
倶利伽羅谷
の戦勝にちなんでたいまつに火を灯し、鉦や太鼓を打ち鳴らして向かいの山から本寺に至り、義仲公の墓前に詣で、風流踊り(木曽踊り)を踊って霊を慰めた故事によって木曽踊りの発祥の地という。
「木曽踊発祥之地」
木曽のナアーなかのりさん
木曽の御嶽ナンチャラホイ
夏でも寒いヨイヨイヨイ
袷せナアーなかのりさん
袷せやりたやナンチャラホイ
足袋そえてヨイヨイヨイ
明治42年(1909年)5月8日、河東碧梧桐は木曽節を聞く予定で福島を訪れている。
五月九日。晴。
福島は岐蘇山中第一の都である。きのう妻籠から十二里の長途を強行したのは、ちょうど都合のよい馬車のあったためではなくて、他に志す所があったのである。俗に木曾節、また御嶽節、なかのりさんともいう盆踊の鄙びた歌がある。それは福島が本場であるというので、それを聞く予定であった。
『続三千里』
方丈と時雨桜
山頭火の句碑
があった。
たまたま詣でて木曽は花まつり
昭和14年(1939年)5月6日に詠まれた句。
木曽義仲公の墓
石段正面中央の宝筐院塔。義仲は久寿元年(1154年)武蔵国(埼玉県)大蔵館で生まれた。幼名駒王丸。2歳の時、父義賢は、兄の子義平に討たれたが、斉藤実盛のはからいでこの近くの上田にあった
中原兼達
の屋敷にかくまわれて成育した。元服の後、宮の越(日義村)に館を建てて移った。
治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨を受け、関東、北信濃の兵を集めて北陸より京都に攻め入り平家を追討。征夷大将軍となり、朝日将軍と称せられた。
寿永3年(1184年)頼朝の軍に攻められ、近江(滋賀県)
栗津原
で討ち死にした。年31才。遺髪を納め、分霊はここに眠る。
木曽義仲墓所の前にも
山頭火の句碑
があった。
さくらちりをへたるところ旭将軍の墓
昭和14年(1939年)5月7日、
種田山頭火
は興禅寺に参詣して木曽義仲の墓所を訪れている。
身心何となく不調、雨もふりだしたので、滞在して休養したかつたけれど、財布が合点しないので、八時をすぎてから出発する、まづ興禅寺に詣つて義仲廟を展する、それから蝙蝠傘をさしてぼつぼつ歩いた、歩いてゐるうちに、だいぶ身心も軽くなるやうである、歩くことは私には一種の服薬である。
『旅日記』(昭和十四年)
「私の旅日記」
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