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私の旅日記
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2010年
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塩尻歌碑公園
〜碑巡り〜
塩尻は「短歌のまち」。
塩尻市広丘原新田に塩尻歌碑公園がある。
若山牧水の歌碑
があった。
うす紅に葉はいち早く萌えいでゝ咲かむとすなり山ざくら花
第14歌集『山桜の歌』収録の歌。
大正11年(1922年)、
湯ヶ島温泉
で詠まれたもの。
「
三月末より四月初めにかけ天城山の北麓なる湯ヶ島温泉に遊ぶ。附近の渓より山に山桜甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此処にまとめつ。
」と詞書がある。
昭和52年(1977年)9月17日、牧水四十九回忌に広丘歌碑保存会建立。
『若山牧水歌碑インデックス』(榎本尚美、榎本篁子著)に拠れば、全国で85番目の牧水歌碑である。
女流三歌人の歌碑
鉢伏の山を大きく野にすゑて秋年々のつゆくさの花
四賀光子
春鳥のいかるかの声うらかなし芽ふきけふらふ木立の中に
若山喜志子
いく重やまみやまの奥の山ざくら松にまじりて咲きいでにけり
潮みどり
昭和50年(1975年)6月22日、建立。
明治42年(1909年)、
四賀光子
は太田水穂と結婚。
明治21年(1988年)、
若山喜志子
は広丘吉田に生まれる。広丘小学校の裁縫教師であった時に赤彦が校長だった。
明治45年(1912年)4月2日、牧水は村井駅で太田喜志と会う。この時、喜志は妹の喜利を伴った。妹の喜利が潮みどりである。
桔梗ヶ原を歩いて塩尻まで行き、牧水は汽車で東京に向かった。
うす青き信濃の春に一つぶの黒きかげ置き君去ににけり
昭和2年(1927年)10月13日、潮みどりは31歳で世を去った。
昭和8年(1933年)7月10日、篠ノ井線広丘駅開業。
島木赤彦の歌碑
いさゝかの水にうつろふ夕映に菜洗ふ手もと明るみにけり
昭和26年(1951年)5月、赤彦二十五回忌に建立。
島木赤彦
は明治42年3月から同44年2月まで廣丘尋常高等小学校の校長として単身赴任、赤彦下宿跡「牛屋」が残っている。
窪田空穂の歌碑
あき空の日に照るみとりにほひ出て見まはす四方にあふれなむとす
昭和62年(1987年)7月、生誕110年、沒後20年を記念して建立。
明治10年(1877年)6月8日、
窪田空穂
は東筑摩郡和田村(現松本市和田)に生まれる。
離れたところに太田水穂の歌碑があった。
命ひとつ露にまみれて野をそゆくはてなきものを追ふことくにも
昭和23年(1948年)6月、建立。
明治9年(1876年)12月9日、
太田水穂
は広丘原新田に生まれる。
長野師範学校で赤彦と同級生であった。和田小学校教師当時、空穂宅に下宿。空穂らと和歌同好会「この花会」を結成。「この花会」で四賀光子を知る。
明治45年(1912年)5月5日、太田水穂・四賀光子夫妻の仲人で牧水は太田喜志子と結婚する。
昭和20年(1945年)4月、水穂夫妻は鎌倉から原新田の生家に疎開して敗戦を迎える。
昭和21年(1946年)12月、水穂が浅間温泉の「広丘歌会」忘年歌会に送った歌。その時は「
露にぬれつつ
」となっていたそうだ。
昭和27年(1952年)、曲がつけられ、広丘小学校の第二校歌となっている。
福岡市の
片江風致公園
にもこの歌の碑がある。
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