このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2011年

高遠城址公園〜碑巡り〜
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伊那市高遠町の桜の名所「高遠城址公園」に行ってみた。


昭和14年(1939年)5月3日、 種田山頭火 は高遠を訪れている。

   高遠

・なるほど信濃の月が出てゐる


伝、高遠城大手門


昭和37年(1962年)4月18日、 荻原井泉水 は高遠に1泊する。

信州高遠に一泊

花今日明日のその日の花へいそぎゆく
四月十八日

『大江』

国指定史跡進徳館


登録有形文化財「高遠閣」


イベント、夜間のライトアップは中止。

入園料500円は通常通り。

桜雲橋


高遠小彼岸桜は長野県の天然記念物。

日本さくら名所100選に選ばれている。

人は多いが、それでも例年の半分だという。

平成18年(2006年)4月6日、高遠城は 日本100名城 に選定された。

高遠城の戦い(古戦場跡)

 天正10年(1582年)2月、 織田信長 は、信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じて、一気呵成の攻略に転じた。

 伊那口から嫡男信忠率いる5万の兵の進攻に、恐れをなした伊那谷の諸将城主は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。

 時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落して追い返し、わずか3千の手兵をもって敢然としてこの大軍を迎え撃った。古来「要害は必ず兵禍を被る」と言われるが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわらず、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、3千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁になげつけて果てたと古書は伝えている。

 この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後の場となったのである。

廣瀬奇璧の句碑があった。


斑雪高嶺朝光鶯鳴いて居

(はだらたかねあさかげうぐいすないてい)

 高遠出身の鉱山業者で、高遠閣建設に尽力されたことで知られている廣瀬省三郎(俳号奇璧)の句で、遠く東の方、仙丈ヶ岳を眺めて詠んだものである。

 題字の「嶽色江聲」は高遠出身の近代洋画界の奇才で、独特のスタイルをもつ書家でもあった 中村不折 の揮毫によるものである。

裏面は 河東碧梧桐の句碑


西駒は斑雪(はだれ)てし尾を肌脱ぐ雲を

 奇璧と交流があった河東碧梧桐の句で、西方、駒ヶ岳の残雪が、駒(馬)の姿に見えるようになった情景を詠っている。

荻原井泉水の句碑 もあった。


花を花に来て花の中に坐り

昭和35年(1960年)4月6日、建立。

(ここに予が花の句碑あり)

わたしが石である花の句に花さきかかり

『大江』

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