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私の旅日記2015年

古城山公園〜「休石」・「鏡石」〜
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笠岡市笠岡に古城山公園がある。


古城山


古城山公園

伝承

 標高約70米。古くから内海の景勝地として知られる。もとは、海中の一孤島とも、応神山と連続していたとも伝えられる。

 別名、「海松(みる)が丘」、「吸江山」、「高松の城山」と言われた。

笠岡城

 弘治年間(1555〜1558)に能島村上水軍の一族、村上隆重が笠岡城を築城。その後、村上景広、毛利元康が在城。関ヶ原合戦後、徳川家康の所領となり、代官、小堀新助が入城。

 元和2年(1616年)池田備中守長幸の居城。

 元和5年(1619年) 松山城 (高梁市)に移り、笠岡城は廃城となった。

 明治40年(1908年)末新田埋め立てのため切り下げられ、城の遺構が消滅した。

 昭和31年、笠岡市の都市公園となる。

笠岡市都市計画課

展望台から見下ろす。


古城山公園には9基の文学碑がある。

南麓に飯尾宗祇休石があった。


左側面に宗祇の句が刻まれている。

山松のかけやうきみる夏の海

休 石

西国へくだり侍りし時、備中の国かさおかにて

   「山松のかけやうきみる夏の海」

連歌師 宗祇 は明応3年(1494年)3月弟子の 宗長 、宗作を連れて山口へ向かう途中、笠岡の陶山一族訪ねて詠む。

 宗祇が大内政弘に招かれ都から山口へ向かうのは、文明12年(1480年)のこと。

   影不知

山松のかけやうきみる夏のうみ

『老葉』(10巻)

文明13年(1481年)夏頃、『老葉』(10巻)成立。

寛保2年(1742年)3月、江草南江建立。

芭蕉鏡石


「芭蕉翁」とあるのが、表。

世の中はさらに宗祇乃やとり哉

出典は 『笈日記』

『虚栗』 には「世にふるも」とある。

  手つから雨の侘笠をはりて

世にふるもさらに宗祇のしくれ哉

此句五文字を世の中と笈日記 にはしるさける筆の誤なるべし虚栗 の比也


天和2年(1682年)、芭蕉39歳の句。

安永8年(1779年)3月、丸山株周建立。

辺りは「笠岡川柳公園」として無数の句碑がある。

  『諸国翁墳記』 に「嶌 塚 備中州笠岡吸江山 唐葵菴連中建 ほとゝきすきへ行かたや嶋ひとつ」とある。

 明和8年(1771年)、南江の七回忌に笠岡連中が「嶌塚」を古城山に建立。

〔安永〕八年二月二十九日、京僧蝶夢、沂風を伴ひ出雲大社参詣の途、岡山、笠岡にて交遊、笠岡連中蝶夢を導師に請うじ、かつて建立せる嶌塚供養の俳諧を興行し「島塚集」を上梓す。

『吉備俳諧略史』(西村燕々編)

 安永8年(1779年)3月3日、 蝶夢 は出雲行脚の途上笠岡を訪れ、9日まで滞在。吸江山に登る。「嶌塚」供養の俳諧を興行。

 ある日、此裏山の吸江山 に登る、江の中に出たる山也、めなれぬけしき多かる中にも、遠くは伊豫讃岐の山々横をれふし、近くは神武天皇の御船着たる神島、能登守教輕の合戦ありし水島をはじめ、鞆の津泉水山の島どもまで、なごりなくみゆ、かゝるながめあればにや、中むかし宗祇法師もこの浦山にて

   山松のかげやうきみる夏の海

といふ發句ありしより、見るが岡といふ、爰に芭蕉翁の墳を築き一宇の草堂を建て、年月をへていまだ供養なかりしかば、其事すとて、六日ばかりがほど、此浦べにとどめられける。


岡山県で最も古い芭蕉の句碑であったが、現在行方不明である。

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