このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
日出城址
〜親娘碑〜
日出町二の丸に日出城址があるので、立ち寄ってみた。
瀧廉太郎像があった。
昭和56年(1981年)3月、田吹繁子寄贈。
楽聖 瀧廉太郎
瀧家の初代は日出藩初代藩主木下延俊
(のぶとし)
に召し抱えられて以来、四代・五代・八代は日出藩の家老を務めるなど、上級武士の家柄でした。
廃藩置県後、廉太郎の父・吉弘は上京し、明治4年に大蔵省に勤め、3年後には初代内務郷大久保利通の書記官となっています。
廉太郎は明治12年に東京で生まれ、15歳で東京音楽校(現
東京芸術大学
)に入学しました。当時在京の日出町出身者で作る「暘谷
(ようこく)
会」にも入会し、明治34年(1901年)3月には東京の萬安亭で廉太郎のドイツ留学壮行会が催されました。
日出町の龍泉寺には瀧家の墓所があり、初代から十代にわたる先祖が29基の墓に眠っています。また父の生誕地日出町をたびたび訪れているなど、廉太郎は当地と縁の深い人物です。
この銅像は日出町で永年短歌を指導していた歌人田吹繁子によって、弟子たちの歌碑建設への謝意として寄贈されました。
銅像の裏面には次のような文が刻まれています。
「偉大な作曲家滝廉太郎は日出町出身
よって
朝倉文夫
作のこの像を町の皆様におくる」
日出町
朝倉文夫は瀧廉太郎と竹田高等小学校の同窓であった。
天守台へ。
日出城址
日出城は、別府湾を望む低台地上に築かれた階郭式の平山城です。別名「暘谷城」ともいわれ、三代藩主俊長が中国の古書『淮南子』或いは『書経』より引用し、命名したといわれています。
日出藩木下家は、全国でも数少ない豊臣秀吉ゆかりの大名で、初代藩主木下延俊の父家定の妹おね(高台院)が秀吉の正室(妻)となったため、木下姓を許されました。
慶長6年(1601年)8月、日出に入国を果たした延俊は、幕府の許可を得て、日出城の築城に着手。翌7年8月には概ね完成し、延俊は築城する間、領内藤原村に設けていた仮館を離れ、日出城に入城を果たしました。
日出城は本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸外郭を重ねた構えをなし、郭
(くるわ)
は堀により仕切られ、要所には、城門が設けられました。明治4年(1871年)の廃藩置県以降、鬼門櫓と裏門櫓を除き、城内の建物は、次々に取り壊されました。
日出町教育委員会
城下海岸を見下ろす。
日出城の築城
日出藩木下家は、全国でも数少ない豊臣秀吉ゆかりの大名で。初代藩主木下延俊
(のぶとし)
は、父家定とともに秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは義兄細川忠興の強い説得により徳川方に付き、忠興の幕府への取り成しによって、豊後国速見郡日出3万石が与えられました。
慶長6年(1601年)8月、入国を果たした延俊は、日出城の築城に着手。城の縄張(設計)は忠興が行い、石垣も忠興の家臣の穴生理右衛門
(あのうりえもん)
を棟梁に構築されました。天守は家定の助勢により築かれ、裏門の扉は富来城(国東市)の城門扉を転用したと言われています。
本丸には、御殿を中心に天守、大手門、搦手門、櫓が築かれ、鬼門にあたる北東隅の城壁は入隅
(いりずみ)
の構造をなし、その上に築かれた鬼門櫓本体も隅欠きを施した特異な構造となっています。裏鬼門(南西)の城壁も隅を欠き、横矢がかけられています。
日出町教育委員会
石段を下りる。
城下海岸
日出城(暘谷城)趾の下の海岸は、俗に「城下海岸」と呼ばれ、波静かな別府湾と高崎山を望む景勝の地であります。
江戸時代は「日出の殿様 木下様は 城の下まで船が着く」と歌われたといい、青い別府湾、緑の松が白壁の天守閣に映えていた昔の暘谷城の威容が偲ばれます。
「海中に真清水湧きて魚育つ 虚子」の句碑が城下海岸の中ほどに立っています。城下海岸と共に有名なものに「城下カレイ」があります。城下の海中の清水の湧く海底で育ったカレイは特に美味だといわれています。夏の夕涼みの頃、夕映えの別府湾を望む城下海岸を中心に日出の古い歴史散歩を楽しむのも一考かと思います。
日出町教育委員会
高浜虚子の句碑
があった。
海中に真清水湧きて魚育つ
大正9年(1920年)7月5日夜、城下の宇佐美健吉氏の別荘「南郡屋
(なんぐにや)
」の句会で詠んだ8句の内の1句である。
昭和27年(1952年)3月30日、除幕式が城下で行われた。
昭和28年(1953年)4月、虚子を迎えて「第1回眞清水句会」を開催。
この句碑が昭和二十七年三月三十日、大分県速見郡日出町の城下海岸に除幕された。
町は国鉄日豊線で下ると、宇佐、杵築など国東半島の頸部を経て別府へ南下しようとする二つか三つ手前の別府湾に面した一駅である。暘谷城址の城壁が海に向って聳え、城址にはいま幾つかの学校が建ち並んで居る。城壁の下は、崖一面に松その他の老樹が茂り、脚下は直ちに海面につらなる。
昭和二十七年三月深見若水氏等の発起で建設された虚子翁句碑は、一本の老松の下に東面して建って居る。高さ五尺五寸、幅三尺、厚さ一尺五寸の自然石。碑陰によると、この句は大正九年七月十二日日出吟遊の詠であって、特異なこの地の情景がそのままに描写されて居る。
(中 略)
虚子翁は昭和二十七年十一月九日、この句碑を見にここに来られ、曾遊の昔を偲び、
何もなき夕暮近き日出の海に
鰯船一艘漕ぎ出づるところ
と、一首の短歌を残された。
『虚子翁句碑』
左に高木晴子の句碑
早紅葉やその真清水を汲むとせん
「虚子先生五女」とは、知らなかった。
大正9年俳聖
高浜虚子
先生来日し左の句を残された。
●七星をささへて松の闇涼し
●我為めに松の落葉を掻く人か
●海中に眞清水湧きて魚育つ
●籐椅子に高崎山の影や来し
●別府の灯積み重なりて涼しさよ
昭和27年帆足万里百年記念事業としてこの句碑を建立す。
因にこの句碑が高浜虚子句碑九州第1号である。
又虚子先生五女俳誌「晴居」選者高木晴子先生の来日の節の句を昭和57年建立したので、親娘句碑として名高い。因にこの句碑が晴子先生の全国第1号句碑と成ったものである。
軍艦海鷹之碑
空母海鷹は、大阪商船所属の「あるぜんちな丸」で、南米航路の旅客船であった。昭和16年、海軍に徴用され、航空母艦に改装された。船団護送や輸送の任務につき、南方作戦にて活躍した。また、特攻機の訓練目標艦としての任務にもつき、航空機による特攻隊のみならず、人間魚雷「回天」の訓練にも使用された。
昭和20年7月24日、豊後水道で触雷、翌25日駆逐艦に引かれ日出の城下海岸に係留着底した。以後、米軍機による空襲が頻繁となり、動けぬ海鷹は猛烈な攻撃を受けて中破し、そのまま終戦を迎えた。
軍艦海鷹の碑は、乗組員戦没者の鎮魂と世界恒久平和の願いをこめ、昭和57年11月22日、元乗組員たちによる海鷹会の手によって建てられたものである。
日出町教育委員会
日出城の石垣
日出城(暘谷城)の石垣
日出藩初代藩主木下延俊は、慶長6年(1601年)秋より約1年の歳月をかけて日出城を築きましたが、石垣の構築は細川忠興の家臣で築城の名手・穴生理右衛門の指揮によってなされたといわれています。
「穴生」は、近江国穴太(滋賀県)の石工の集団・穴太衆を指します。穴太衆は、安土桃山時代から江戸時代にかけて多くの城の石垣を手がけました。穴生理右衛門もまたその一員であったと思われ、彼の指揮により築かれた日出城の石垣は、「穴太積み」として呼び親しまれています。
日出城の石垣は、築石
(つきいし)
に自然石や粗割石を用いた「野面積み」の技法で、「乱積み」(石材を不規則に積み上げ、横目地が通らない)と「布積み(石材を一段ずつ横に並べて据え、横目地を通す)」の中間にあたる「布目崩し積み」により構築されました。
日出城本丸天守台の石垣にみられるように、こうした規模の「穴太積み」の石垣は、大分県下においても大変珍しいといわれています。日出城の歴史とともに「穴太衆」そして「穴太積み」の歴史を語り継ぐ貴重な石垣です。
日出町教育委員会
「私の旅日記」
のトップページへ
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください