このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2008年

荒川土手〜久下神社〜
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吹上 から荒川土手へ。

 寛永6年(1629年)、関東郡代伊奈忠治が4年の歳月をかけて元荒川を久下で堰き止め、和田吉野川に流路を開削したのが現在の荒川だそうだ。

荒川土手の芥子の花


荒川土手沿いに旧中山道を歩く。

 明和3年(1766年)10月4日、建部凉袋は熊谷堤を行き、熊谷に泊まる。

 七日、雨なごりなく晴て、日かげいとけざやかなり。くまがやの堤を行とて見れば、冬の花どもいとはかなげに咲けり。

   くまがやの道のくまびにさく花を折てぞしのぶひとりし行けば

 さて熊谷なる長栄(ナガヨシ)がりとふに、とゞめられてやどる。


久下小学校の前に久下神社があった。


久下神社


久下神社は鎌倉時代から久下村の鎮守。

久下直光が久下氏館の守りとして三島神社を創建したのが始まり。

 大正2年(1913年)、三島神社と村内の社を合祀して、社名を久下神社を改めた。

明治22年(1889年)、久下村と新川村が合併。

新川村は舟運と養蚕で栄えたが、現在は荒川の河川敷となり、消滅。

昭和16年(1941年)、久下村は熊谷市と合併。

久下橋


平成15年(2003年)6月、完成。

河川敷に新川村があった。

久下橋を過ぎて熊谷市街に向かう。

此の街道、旧中山道


(久下鍛冶)

屋号 大鍛冶屋(戦災ヲ受ク)

「久下鍛冶」は、久下直光が鎌倉から連れ帰り、武具を作らせたのだそうだ。

ここは久下上宿


左熊谷宿、右吹上宿

 享和2年(1802年)4月6日、太田南畝は久下村を通る。

ゆきゆきて堤を下れば久下村の立場なり。左に寺あり。ある人家に、あら川うなぎといへる札たてしあり。又堤に上りてゆけば皂角(さいかち)の木多し。左右ともに田あり。


 文化5年(1808年)5月26日、小林一茶が 草津 へ向かう途中で 大芦河岸 を渡り久下村で休んでいる。

 松山駅にて中食す。平村念仏堂の前に雨やどりす。兜山村。ここにかぶと山伴七とて聞ゆる富豪有。此間村々有て、荒川の舟渡しわたりて久下村林屋勘六に休む。


 天保2年(1831年)10月12日、渡辺崋山は夜明け前に駕籠で鴻巣を発ち、久下を通る。

 吹あげといふ処に駕おろし、おのこども飯す。又行、久下といふ。

久下次郎故址、土俗云久家与梶原景時隔、及戦争敗亡。

 荒川にそひ行。熊谷の土手といふハたゞこの荒川害をおそれ、其長さおよそ三里もありぬらん。堤に皂樹(そうじゅ)をうへ人をしあかしむ。


皂樹は、さいかち。

熊谷市街 へ。

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