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私の旅日記
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2008年
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荒川土手
〜久下神社〜
吹上
から荒川土手へ。
寛永6年(1629年)、関東郡代伊奈忠治が4年の歳月をかけて元荒川を久下で堰き止め、和田吉野川に流路を開削したのが現在の荒川だそうだ。
荒川土手の芥子の花
荒川土手沿いに旧中山道を歩く。
明和3年(1766年)10月4日、建部凉袋は熊谷堤を行き、熊谷に泊まる。
七日、雨なごりなく晴て、日かげいとけざやかなり。くまがやの堤を行とて見れば、冬の花どもいとはかなげに咲けり。
くまがやの道のくまびにさく花を折てぞしのぶひとりし行けば
さて熊谷なる長栄
(ナガヨシ)
がりとふに、とゞめられてやどる。
『三野日記』
久下小学校の前に久下神社があった。
久下神社
久下神社は鎌倉時代から久下村の鎮守。
久下直光が久下氏館の守りとして三島神社を創建したのが始まり。
大正2年(1913年)、三島神社と村内の社を合祀して、社名を久下神社を改めた。
明治22年(1889年)、久下村と新川村が合併。
新川村は舟運と養蚕で栄えたが、現在は荒川の河川敷となり、消滅。
昭和16年(1941年)、久下村は熊谷市と合併。
久下橋
平成15年(2003年)6月、完成。
河川敷に新川村があった。
久下橋を過ぎて熊谷市街に向かう。
此の街道、旧中山道
(久下鍛冶)
屋号 大鍛冶屋(戦災ヲ受ク)
「久下鍛冶」は、久下直光が鎌倉から連れ帰り、武具を作らせたのだそうだ。
ここは久下上宿
左熊谷宿、右吹上宿
享和2年(1802年)4月6日、太田南畝は久下村を通る。
ゆきゆきて堤を下れば久下村の立場なり。左に寺あり。ある人家に、あら川うなぎといへる札たてしあり。又堤に上りてゆけば皂角
(さいかち)
の木多し。左右ともに田あり。
『壬戌紀行』
文化5年(1808年)5月26日、小林一茶が
草津
へ向かう途中で
大芦河岸
を渡り久下村で休んでいる。
松山駅にて中食す。平村念仏堂の前に雨やどりす。兜山村。ここにかぶと山伴七とて聞ゆる富豪有。此間村々有て、荒川の舟渡しわたりて久下村林屋勘六に休む。
「草津道の記」
天保2年(1831年)10月12日、渡辺崋山は夜明け前に駕籠で鴻巣を発ち、久下を通る。
吹あげといふ処に駕おろし、おのこども飯す。又行、久下といふ。
久下次郎故址、土俗云久家与
二
梶原景時
一
有
レ
隔、及
二
戦争
一
敗亡。
荒川にそひ行。熊谷の土手といふハたゞこの荒川害をおそれ、其長さおよそ三里もありぬらん。堤に皂樹
(そうじゅ)
をうへ人をしあかしむ。
「毛武游記」
皂樹は、さいかち。
熊谷市街
へ。
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