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小林一茶ゆかりの地
「草津道の記」
廿五日 曇 草津道の記
文化5年(1808年)5月25日、小林一茶は
草津
へ旅立つ。
雑司ヶ谷の
鬼子母神
に旅の安全を祈る。
法明寺鬼子母神
卯一天
(点)
に久松丁を立て、糀町なる河内屋武兵衛と云ふ人を誘て、同行四人、雑司ヶ谷にかゝる。皆々行末の安堵ならんことを鬼子[母]神に祈る。
顔ぬらすひたひた水や青芒
(すすき)
霖雨の潤ひに土ぬかりて、歩行心にまかせず。
ぬれ臑
(すね)
にへたとひゝつく藪蚊かな
一茶は
板橋
から川越街道を下る。
板橋
板橋、上練馬、上ねりま村
大山道字野山
道有、白子駅にて昼食す、板橋より一里八丁といふ。
膝折宿で
鬼鹿毛
について書いている。
脛
(膝)
折駅といふ有。昔鬼鹿毛といへる馬の脛折りし所といふ。いかなる逸物にやありけん、今の代迄里の名によぶ。彼畜生界にてもほまれなるべし。其屍を葬て、印を植て鬼かげ松といふ。
鬼鹿毛の馬頭観音
一茶は川越街道を下り、
平林寺
を通る。
平林寺
野火留の里は昔男の我もこもれりとありし所と聞くに、そのあたりに思はれてなつかしく、此辺西瓜を作る。
瓜むいて芒の風に吹かれけり
往還より南に平林寺といふ大寺有。
廿六日 雨 昼より晴
5月26日、一茶は
箭弓稲荷神社
を訪れた。
箭弓稲荷神社
此原より左へ入て五丁程、矢弓稲荷とて十年ばかり前かたはやり玉ふ神おはしけるが、五尺程の花表いくそばく社のうらに積かさぬ。
一茶は現在の県道66号行田東松山線を通り、
大芦河岸
で荒川を渡ったらしい。
大芦橋
松山駅にて中食す。平村念仏堂の前に雨やどりす。兜山村。ここにかぶと山伴七とて聞ゆる富豪有。此間村々有て、荒川の舟渡しわたりて久下村林屋勘六に休む。
一茶は中山道熊谷堤に上り、
熊谷宿
に立ち寄った。
「旧中山道跡」
是より中山道熊谷堤に上りて熊谷駅千代村といふ宿にて迹の人待たんとしたりけるに、日いまだ未の歩み少し過たるなれば深谷迄といそぐ、
深谷宿
に泊まった。
廿七日 晴
5月27日、一茶は
金鑽神社
のことを書いている。
金讃神社
本庄駅に金讃宮といふ大社有。別当真言宗威徳院といふ。
一茶は本庄から
新町
へ。中島屋松五郎で休む。
木曾海道六十九次之内 新町 広重
新丁
(町)
中島屋松五郎に休む。
廿八日 雨
5月28日、一茶は
榛名町
に入る。
榛名神社随神門
ハルナ町に入。坊々は雲霧かゝりて、安居一夏
(あんごいちげ)
の鐘声渓々にひゞきて、胸の雲忽ちはるゝ心ちして、川音松風もおのづから御法
(みのり)
を修する様に覚えて、さながら仙窟のおもぶき也。
香需散犬[が]ながめてや雲の峯
其角
鶯もとしのよらぬや山の酒
一茶
香需散は暑気払いの薬。
一茶は
榛名神社
を訪れた。
瓶子
(みすず)
の滝
岩のしたゝりを
(の)
とくとくと落つる谷をへだてゝ、石の不動の像を彫りて、けふ開眼行ふとて、わざわざ登山の人も有けり。幸に来かゝるこそ本意なれ。誦経の筵に逢はんと思へど、無縁の者は坊に一夜をゆるさず。ちからなくもやみぬ。
芒から菩薩の清水流れけり
山清水守らせ玉ふ仏哉
榛名神社本殿
岩に沿ふ
(う)
て過ぐれば、ハルナの神の社ありて、神楽所の刃の舞など、所がらすゞ吹く風もかみさびて見ゆ。
夏山や目にもろもろの草の露
夕立にとんじ
(ぢ)
やくもなし舞の袖
一茶は
榛名山番所
を過ぎて
榛名湖
へ。
榛名山番所跡
榛名湖と紅葉
又跡にもどりて、茶店より右に下りて行き、山の番所を過ぐるに、波淼々
(べうべう)
として閑に、雲片々として水底いそぐ御池有。
一茶は榛名を下り、
大戸
を通る。
大戸関所跡
四里ばかり山を下りて、長藤村に出る。大戸平村など過ぎて、大戸の入口より右に入つて、橋を渡りて漸
(やうやく)
本道に出でたり。稲田駅に休。峠を越して、すがを
(須賀尾)
駅高橋屋に泊。
麦わらのマンダラもお
(織)
れ筥根山
廿九日 雨
一茶は長野原を過ぎて
草津温泉
へ。
一茶の句碑
廿九日 雨
長野原など過ぎて草津の雲嶺庵に入、十八年へだゝりての再会也、スハの若人匏宇に逢ふ。
湯けむりにふすぼりもせぬ月の貎
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