このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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種田山頭火の句碑

「山頭火行乞日記」の碑

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牟岐町 から国道55号で高知県に入ると、東洋町に白浜海水浴場がある。


「山頭火行乞日記」の碑があった。


 雨中出立、そして雨中行乞、雨が本降りになった、風が強く吹きだした。奥鞆町で泊るより外なくなったが、どの宿屋でも泊めてくれない。

 暮れちかく宍喰町まで来たには来たが、また泊れない、ようやく甲ノ浦まで来て、ようやく泊めて貰うことが出来た、ありがたかった、よい宿でもあってうれしかった、同宿に気むつかしい病人がいていやだったが。

 宿のおばさんがお祭の御馳走のお裾分だといって、お鮨を一皿おせったいして下さった、おいしかった。

      私も今夜は二杯傾けた。

            雨風、行程六里 昭和十四年十一月四日

甲浦、三福屋(みなと屋)

   波音おだやかな夢のふるさと
秋風こんやも星空のました
   わがいのちおはるもよろし
生きの身のいのちかなしく月澄みわたる
   波音の松風の秋の雨かな
歩くほかない秋の雨ふりつのる

漂泊の俳人山頭火と甲浦


 自由句俳人種田山頭火は明治15年12月3日大地主種田家の長男として山口県防府市に生まれる。名は正一、幼くして母を失い家運衰勢の中、明治35年早稲田に入学するが、同37年病を得て中退。同42年妻サキノと結婚、1子を儲ける。しかし厳しい現実に生活も心も乱れて、やがて離婚。大正2年荻原井泉水に師事して句作に没頭する。以後多くの友人知己の援助を得て九州中国四国等を行乞、多数の秀句と日記著書を残した。

 酒と句をこよなく愛して生涯を旅にくらしたが、無垢の心眼は自然や人情をありのままにとらえ、その句はピカソや山下清の絵に相通じるものを感じさせる。

      濁れる水の流れつゝ澄む

      分け入っても分け入っても青い山

 流れ歩いて己の業に挑む山頭火には命終のその日までただ歩くよりほかなかった。

 晩年四国行乞の旅に出た山頭火は甲浦(みなと屋)に1泊、この町の美しい自然や人情に感動、その模様を日記に残して旅立ったが、この碑はその自由人の足跡を後世に伝える記念碑である。日記には三福屋とあるが、甲浦には当時も今も三福屋はない。多分みなと屋の間違いであろうと思われる。

 昭和15年10月11日早朝、松山 一草庵 にて脳溢血のため死去。享年59才であった。   合掌

 この碑の前に立つ時、きっとあなたは日々のストレスに傷つき、永い間忘れていた己心の山頭火に再び出会うことが出来るでしょう。そして時々でいい、この特異な俳人のいたことを思い出してほしい。

平成12年(2000年)5月3日、甲浦未来会建立。

白浜海水浴場には野口雨情の歌碑もあったようだ。

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