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新年の旅日記
出雲日御碕灯台
〜坂村真民の詩碑〜
出雲縁結び空港から出雲日御碕灯台へ。
貞亨2年(1685年)5月、大淀三千風は日御碕を訪れている。
○日神崎 海眺 人々いざなひ。海大路の異島奇岩に目をきらさせんと。はや蘆分の棚なしを艤
(ふなよそひ)
し。風幕浪箪を我物とし。檜□
(ひわりご)
とりそへ。棹欲
(てんか)
燕々たる空に。友とする人指
(ゆびさし)
て。何島彼山と。右のかたにあめ色の嶮岩あり。龜甲の紋枇
(あさやか)
に。此神の璽
(しるし)
なりと。まことに卜食
(うらはむ)
てふ事も思ひ出すべし。舷
(ふなはた)
輾
(きし)
る音して。二ッ三ッぼろぼろふる。あなにくや。鹽の八百會
(やをゑ)
にます神津姫。此雨可々呑
(のん)
天牟
(ん)
といへば。いでその可々のうらこそ此あたりよ。それに大社の神の乳石ありて。今も水味
(すいみ)
したたる。細川幽齋の歌に。
あはれなりいまだ乳をのむ蜑の子の可々のあたりをはなれざりけり
むべも母を家々
(かか)
といふも。此例にやあらむ。とすれば雲雨を山の口かゝのんでんと人々笑ふ。
『日本行脚文集』
(巻之三)
出雲日御碕灯台
〜東洋一と讃えられている灯台〜
この灯台は、1900年に着工、1903年4月1日(明治36年)に完成し、現在も島根半島最西端の要衝で日本海を航行する船舶の道しるべとして有効に利用されています。
この灯台が建設されたのは、日清戦争直後の海運振興のため各地に大型灯台が集中的に建設された時期で、島根県では1898年に建設された馬島灯台(浜田市)・
美保関灯台
(美保関町)に次いで3番目に建設されました。
この灯台は、地上から頂部まで43.65mもある日本一ノッポの灯台で、地震に耐えるため外壁が石造り内壁がレンガ造りの二重構造になっており、外国にはない日本独自の技術が使われています。
光源の一等レンズ(フランス製、直径2m59cm)は、全国で6箇所の灯台にしかない貴重なものです。
国際航路標識協会(IALA)が提唱した「世界灯台100選」の一つにも選ばれており、地元でも日御碕のシンボル「東洋一の灯台」として親しまれています。
建設当時は、職員が家族で生活するため石造りの職員宿舎(美保関灯台と同型)やレンガ造りの倉庫等がありましたが、1974年に有線監視方式による無人管理とした際に取り壊しました。
この灯台は、船舶が安全に航行するための大切な施設です。この施設の異常を発見した場合や何かお気づきの点がございましたら、下記の管理事務所までお知らせください。
管理事務所
第八管区海上保安本部
境海上保安部
海上保安庁 燈光会 日本財団
遊歩道を歩く。
出雲松島
眼下に浮かぶ大小20余りの島々を総称して「出雲松島」と呼んでいます。いずれも流紋岩からできており、それが激しい波の浸食作用や海面の昇降運動により次第に美しい形に仕上げられたもので、中には海食洞の発達した島も見られます。また、岩礁域にはホンダワラ類・アラメ・クロメ等が着生し、みごとな海中林を形成しており、メバル・カサゴ等の根付魚が多く生育しています。また、日御碕一帯はブリやタイ等の回遊魚も多く、絶好の釣り場となっています。
坂村真民の詩碑
日御碕に立つ
日本海に
夕日が沈むまで
立っていた
大宇宙大和楽の念唱を
唱えながら
夕日に染まり
立っていた
平成12年(2000年)2月、建立。
祈りの詩人坂村真民が平成九年神有月に当地で詠まれたものです。
尼緑之助の句碑
灯台の夕陽神話を抱きよせる
昭和5年(1930年)5月27日、
与謝野鉄幹・晶子
夫妻は日御碕を訪れている。
經が嶋蒲公英
(たんぽぽ)
の穂が一つづつ綿散らすごと出て行くかもめ
經が嶋われもかもめの一つにてやや上層の岩に住ままし
そのなかに猫の鳴くにも似る聲をもてる鴎は岩落ちぬべし
「落葉に坐す」
遊歩道から見た灯台
昭和37年(1962年)6月6日、
水原秋桜子
は日御碕を訪れている。
漁村から少し登った崖の端に望遠鏡を据えつけて、海猫の群を観察できるようになっていたが、それは後廻しにしてなお崖道を辿り、燈台のたつところに出た。東洋一の燈台ということで、かなり高く見えるが、この辺の景は別にとりたてていうほどのことはないので、望遠鏡のところに戻って覗いてみた。
「麦秋紀行」
出雲、日の御碕
海猫の巖の怒濤や吹流し
海猫の巣立つ怒濤の日なりけり
『旅愁』
経島
(ふみしま)
ウミネコ(カモメ科)の繁殖地として国の天然記念物に指定されているそうだ。
みさき丼を食べた。
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