このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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文京区
森鴎外観潮楼跡
東京メトロ千代田線千駄木駅から
団子坂
を上る。
団子坂を上ると、左に文京区立鴎外記念図書館がある。
文京区立鴎外記念図書館の前に森鴎外観潮楼跡の案内板がある。
森鴎外観潮楼跡 千駄木1−23−4
森鴎外(1862〜1922)は明治25年(1892年)1月から大正11年(1922年)7月9日に60歳で没するまで、この地に住み、多くの名作を残した。
鴎外は邸宅に二階建で12畳の書斎を増築し、遙か遠くに品川沖が眺められたので観潮楼と命名した。
「観潮楼と命名した」からには海が見えたのだと思う。「品川沖が眺められた」なんて、今では想像も出来ないことだ。
ここを文学活動の拠点とした鴎外は
「青年」
「雁」
や「阿部一族」「高瀬舟」などの歴史小説、さらに「渋江抽斎」に至る独自の考証史伝作品を発表した。また、明治40年(1907年)から催された観潮楼歌会には、与謝野寛(鉄幹)、石川啄木など多くの詩人や歌人が参会して、鴎外を中心とした文学者の集まりが形成された。
明治40年(1907年)、
北原白秋
は観潮楼歌会に出席した。
明治41年(1908年)5月2日、
石川啄木
は与謝野鉄幹に連れられて観潮楼歌会に出席した。
明治42年(1909年)1月9日、
斎藤茂吉
は初めて観潮楼歌会に出席した。
観潮楼は昭和12年(1937年)の火災および昭和20年(1945年)の戦災により焼失したが、図書館の南側にある旧表門の礎石、敷石や庭園内の老銀杏
(いちょう)
、庭石(
幸田露伴
、斎藤緑雨ゆかりの三人冗語の石)などに、当時の面影が偲ばれる。日本文学史上意義深いこの地に、昭和37年鴎外記念室をもつ区立鴎外記念図書館を開設。
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月
鴎外は小説『青年』で「鴎村」と書いている。
ふいと左側の籠塀のある家を見ると、毛利某という門札が目に附く。純一は、おや、これが鴎村の家だなと思って、一寸
(ちょっと)
立って駒寄の中を覗いて見た。
森鴎外『青年』
散策の途中で通りがかるだけなので、区立鴎外記念図書館に立ち寄る機会がない。
平成24年(2012年)に鴎外生誕150年を記念して、
文京区立鴎外記念館
を開館した。
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