このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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下 町
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文京区
菊坂界隈〜樋口一葉の菊坂旧居跡〜
本郷3丁目交差点
から
本郷通り
を行く。
本郷4丁目と5丁目の間の坂が菊坂である。
本郷3丁目の四ッ角で乗り物を捨て、本郷通り
を東大赤門の方へ70メートルほど歩み、文京センターの角を左へ折れる道を菊坂の通りという。
魚屋、八百屋、菓子屋、葬儀屋、そば屋、せんべい屋、本屋、それから何を売っているのか得体の知れない構えなど、およそ東京のどこにでもある。ありふれた映えないその通りを、300メートルほどもうねうねと行く。
近藤富枝『本郷菊富士ホテル』
震災にも戦災にも焼け残り、明治 ・大正の面影を残している。
菊 坂
本郷4丁目と5丁目の間
「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。
今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片1丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。
また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の3人家族の戸主として、菊坂下通りに住んだのは明治23年(1890年)であった。今も一葉が使った掘抜き井戸が残っている。
一葉の父は則義。一葉の父則義は、
夏目漱石の父
直克と東京府で同僚だったそうだ。歴史・文学上で則義の名は樋口一葉の父以外に聞いたことがない。
寝ざめせしよはの枕に音たててなみだもよほす初時雨かな
菊坂は
夏目漱石
の『こころ』にも一度だけ出てくる。
−郷土愛をはぐくむ文化財−
文京区教育委員会
菊坂を下っていくと、旧菊坂町の案内があった。
旧菊坂町(昭和40年までの町名)
この辺一帯に菊畑があった。坂を菊坂といい、坂下を菊坂町と名づけた。
元禄9年(1696年)町屋が開かれ、その後町奉行支配となった。
町内には、振袖火事の火元の本妙寺があった。下通りには、女流作家樋口一葉が住んだ。現在旧居跡には使った掘抜井戸が残っている。
掘抜井戸
樋口一葉の菊坂旧居跡
樋口一葉の菊坂旧居跡
文京区本郷4−32・31
一葉は、父の死後母妹と共に、次兄虎之助のもとに身を寄せた。しかし、母と虎之助との折り合いが悪く、明治23年(1890年)9月、3人は旧菊坂町70番地(この路地の菊坂下道に向かって右側)に移ってきた。ここは安藤坂の
萩の舎
(一葉が14歳から没するまで通った歌塾)に近いところであった。
明治25年(1892年)5月には、この路地の反対側の下道に面したところ(菊坂町69番地)に移った。
ここでの2年11ヶ月(18〜21歳)の一葉は、母と妹の3人家族の戸主として、他人の洗濯や針仕事で生計を立てた。おそらく、ここにある掘り抜き井戸の水を汲んで使ったと思われる。
きびしい生活の中で、萩の舎の歌作、それに必要な古歌や古典の研究をし、上野の図書館にも通い続けた。そして、萩の舎での姉弟子田辺花囿(かほ)の影響で、小説家として立つ決意をかため、半井桃水(なからいとうすい)に小説の手解きを受けた。
明治25年(1892年)3月「武蔵野」創刊号に小説『闇桜』が掲載された。また、小説と共に貴重な日記はここに住んだ明治24年(1891年)4月1日から書き始められている。いわば、ここは一葉文学発祥の地と考えられる。菊坂上通りに、一葉や母のよく通った質屋が今もあり、その土蔵は一葉当時のものである。
−郷土愛をはぐくむ文化財−
文京区教育委員会
樋口一葉の菊坂旧居跡から更に菊坂を下ると、一葉ゆかりの伊勢屋質店がある。
「伊勢屋質店」土蔵
一葉ゆかりの伊勢屋質店(本郷5−9−4)
万延元年(1860年)、この地で創業し、昭和57年に廃業した。樋口一葉(1876〜96)と大変縁の深い質屋であった。
一葉の作品によると、一葉が明治23年、近くの旧菊坂町(本郷4丁目)の貸家に母と妹と移り住んでから、度々この伊勢屋に通い、苦しい家計をやりくりした。明治26年、下谷竜泉寺町に移ってからも、
終焉の地
(現西片1−17−18)に戻ってからも、伊勢屋との縁は続いた。
一葉が24歳の若さで亡くなった時、伊勢屋の主人が香典を持って弔ったことは、一葉とのつながりの深さを物語る。店の部分は明治40年に改築した。土蔵は外壁を関東大震災後塗り直したが、内部は往時のままである。
一葉の明治26年5月2日の日記
−郷土愛をはぐくむ文化財−
文京区教育委員会
本妙寺坂
を上る。
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