このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
下 町
小塚原刑場跡
〜首切地蔵〜
JR常磐線南千住駅下車。
JR常磐線と東京メトロ日比谷線の間に小塚原刑場跡がある。
江戸のお仕置き場(刑場)は、品川の
鈴ヶ森
と千住の小塚原の2つである。
小塚原の刑場は、間口60間余(約108m)、奥行30間余(約54m)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔、斬罪、獄門などが執行された。
首切地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため、寛保元年(1741年)に建てられたものである。
荒川区教育委員会
明和8年(1771年)、蘭学者杉田玄白・前野良沢らは小塚原刑場において刑死者の解剖(腑分け)に立ち合った。
荒川区指定文化財
小塚原の首切地蔵
小塚原での刑死者の菩提をとむらうため、寛保元年(1741年)に建立されたこの地蔵は、27個の花崗岩を組み合わせた全体の高さが4mに近い坐像で、台座には発願者・石工の名が刻まれている。奥州街道沿いにあったので、江戸に出入りする多くの人が目にしたという。明治28年(1895年)に土浦線(現常磐貨物線)敷設工事のため、線路の南側から現在地に移されたが、人々に安らぎを与えてきた慈悲の姿は変わるところがない。
文化7年(1810年)8月10日、小林一茶はさらし首のことを書いている。
十日 折々雨
去五月廿二日 町奉行所 小田切ノ白州ニテ三人切殺シタル金エ衛門小塚原ニて梟首 四十六
『七番日記』(文化7年8月)
首切地蔵
小塚原
科札に天先時雨給ひけり
『七番日記』(文化11年11月)
科札
(とがふだ)
は罪状を公示した高札。
JR常磐線の線路を挟んで、小塚原回向院がある。
1667年、小塚原刑場で処刑された人々を供養するため、両国回向院の別院として小塚原回向院が創建された。
安政6年(1859年)10月7日、
橋本左内
は安政の大獄で小塚原刑場にて斬首された。
安政6年(1859年)10月27日朝、
吉田松陰
は死罪を申し渡され、同日午前10時に伝馬町牢屋敷で刑が執行される。松陰は罪人として回向院に葬られた。
文久3年(1863年)、吉田松陰の墓所は高杉晋作らによって世田谷区若林に改装される。
小塚原回向院に吉展地蔵尊がある。
吉展地蔵尊
吉展ちゃんを供養するため、建立された。
吉展ちゃんの遺体発見現場である
円通寺
には子育地蔵尊がある。
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