このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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旧駒込西片町〜佐佐木信綱〜

  「鳳明館森川別館」 から坂を下り、西片2丁目交差点で言問通りを越えると、西片2丁目。


「佐佐木信綱宅跡」の標示板があった。


佐佐木信綱宅跡

文京区西片2−2−10と11

  佐佐木信綱 (1872〜1963)は、明治5年(1872年)三重県に生まれた。10歳の時、国文学者の父弘綱に伴われて上京し、高崎正風の門に入り、東京大学(古典科)を卒業した。

 明治38年、東京大学講師となり、万葉集、歌学史、和歌史を講じ、歌学者として業績をあげた。また万葉集の古写本その他古典籍の復刻、紹介に努めた。

 歌人としては、落合直文、 正岡子規与謝野鉄幹 などと歌壇の革新運動を進めた。「広く、深く、おのがじしに」の標語のもとに、歌は心の花であり、美の宗教であると「思草(おもいくさ)」「新月」など多くの歌集を出した。多くの人に親しまれた「夏は来ぬ」「灯台守」などの作詞家でもある。この地は、大正元年7月神田から転じ、昭和19年(1944年) 熱海 に移るまで住んだ。

ふけて歩む西片町の横通 深山のごとし月しずかなる
西片情景3首
から橋の上ゆ眺むればけぶりの色 木立の色も秋としなれり
交番の上にさしおほう桜さけり 子供らは遊ぶおまわりさんと

−郷土愛をはぐくむ文化財−

文京区教育委員会

平成13年3月

西片1丁目と西片2丁目の境界に旧町名案内があった。


旧駒込西片町

(昭和39年までの町名)

 江戸時代は、備後福山藩主阿部丸山屋敷と幕府の徒士(かち)組(将軍の警護と先ばらい)の屋敷であった。

 当時は単に東片町向側といつていた。中山道をはさんで、駒込東片町の反対側にあったからである。

 明治5年、東片町に対して初めて西片町の町名をつけた。

 明治以後、町内には学者や文人が多く住み、一名学者町と言われた。 夏目漱石 や佐佐木信綱もここに住んだ。

 誠之小学校は阿部家から敷地から校具などの寄付を受け、明治8年に開校した。校名は福山藩の藩校「誠之館」からとった。

 夏目漱石は「本郷西片10番ろノ7」に住んでいた。現在の「文京区西片1−14−8」である。

たまたま郵便配達の人が通りがかったので聞いてみると、すぐにわかった。

さすがプロである。

場所は分かったが、何の表示もなかった。

明治39年(1904年)12月、漱石は 千駄木 から西片に移ってきた。

ちなみに西片の漱石の家に後で魯迅が入ったそうだ。

西方町には尾上柴舟も住んでいた。

 尾上柴舟邸は「本郷区駒込西片町十番地ホの十九号」、現在の誠之小学校西北部にあったそうだ。

 明治37年(1906年)5月22日、 若山牧水 は西方町の尾上柴舟邸を訪れている。

後日、柴舟が歌を詠んでいる。

訪ね来て小さく坐りし少年の君が姿の消えむ日あらめや

翌明治38年(1905年)、尾上柴舟を中心に「車前草社」を結成。

石坂 を下って 春日通り に出る。

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