このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2006年

両大師〜寛永寺旧本坊表門〜
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上野駅公園口を出ると、国立科学博物館の裏に両大師がある。


両大師


 正保元年(1644年)、 寛永寺 開山天海僧正の像を安置する堂として建立。天海僧正の諡号(しごう)は慈眼(じげん)大師で、「開山堂」また「慈眼堂」と称した。

 その後、天海僧正が尊敬した高僧慈恵(じえ)大師良源の像も安置したため、慈眼大師天海と共に「両大師」と呼ばれるようになったそうだ。

 慈恵(じえ)大師良源は比叡山延暦寺第18代座主である。一般には 元三大師 (がんさんだいし)の名で知られている。

初霜の右は元三大師哉

『七番日記』(文化11年10月)

 元三大師良源は二本の角のある姿で描かれることから角大師の通称がある。二本の角のある鬼形の元三大師像は絵や刷り物は魔除けの護符として用いられた。

さゞ波や田螺がにじる角大師

『七番日記』(文化9年2月)

両大師の隣りに寛永寺旧本坊表門がある。

寛永寺旧本坊表門


寛永寺旧本坊表門は国指定の重要文化財である。

寛永寺旧本坊表門

 江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現、東京国立博物館敷地内)に、本坊があり、「東叡山の山主である」輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は3,500坪(約11.5ヘクタール)という壮大なものであったが、慶応4年(1866年)5月、上野戦争のため、ことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れた。

 これは、その焼け残った表門である。明治11年、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、表門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するにともない、現在地に移建した。

台東区教育委員会

蝶とぶや上野ゝ山門明た迚

『七番日記』(文化11年正月)

黒門である。

黒門も摺鉢山も桜かな

『寒山落木 巻五』 (明治二十九年 春)

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