このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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下 町
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文京区
千駄木界隈〜高村光太郎旧居跡〜
東京メトロ千代田線千駄木駅から
団子坂
を上る。
鴎外記念本郷図書館の手前の路地を入ると、「宮本百合子ゆかりの地」がある。
宮本百合子ゆかりの地
宮本百合子ゆかりの地
文京区千駄木5−20と21
旧姓中条ユリ(1899〜1951)は明治32年(1899年)小石川原町(現千石2丁目)で生まれた。父は建築家で、札幌農学校の校舎設計のため、札幌に赴任した。そのため3歳までその地で過ごし、のちに上京し、一家はこの奥の地である旧駒込林町21番地に住んだ。
駒本小学校、誠之小学校、お茶の水女学校から、日本女子大(英文予科)に進んだ。女子大1年の時、毎年行っていた父方の郷里である郡山市郊外の農村を舞台にした小説『貧しき人々の群れ』を書き、天才少女とうたわれた。女子大は1学期で退学し、作家生活に入った。
明治36年(1903年)4月、智恵子は日本女子大学校に入学。
中条ユリが日本女子大英文科予科に入学するのは大正5年(1916年)。
東京女子大学は大正7年(1918年)に開学。
大正7年(1918年)アメリカに留学し、留学中結婚したが、帰国後離婚した。その経緯を描いた『伸子』は代表作となった。昭和2年(1927年)ソ連に旅し、帰国後、日本プロレタリア作家同盟に加入した。昭和7年に再婚し、昭和12年中条ユリから宮本百合子に姓名を変えた。戦後、『播州平野』など多くの小説、評論、随筆を発表し、昭和26年実家である千駄木のこの地で没した。このあずき色の門柱は実家、中条家入口の名残りである。
−郷土愛をはぐくむ文化財−
文京区教育委員会
昭和7年(1932年)2月、宮本顕治と結婚。4月、駒込署に検挙され、顕治は地下活動に入る。
昭和8年(1933年)、顕治検挙。
昭和9年(1934年)1月、検挙され、翌月作家同盟解散。6月母の危篤で釈放。
昭和10年(1935年)5月、淀橋署に検挙される。
昭和11年(1936年)1月、父急死。6月公判、懲役2年執行猶予4年を受ける。
宮本百合子の実家、中条家入口の名残りの門柱
昭和20年(1945年)4月の
戦災
で住居は焼失し、昔の面影を残すの中条家入口の門柱くらいである。
「宮本百合子ゆかりの地」からさらに歩くと、「高村光太郎旧居跡」がある。
高村光太郎旧居跡
高村光太郎旧居跡
千駄木5−22−8
高村光太郎[明治16年(1883年)〜昭和31年(1956年)]は彫刻家・詩人・歌人。彫刻家
高村光雲
の長男として台東区下谷に生まれ、10歳の時に、ここからすぐ近く(現・千駄木5−20−6)に移り、そこで育った。
明治25年(1892年)11月、
高村光太郎
は本郷区駒込千駄木林町に転居する。(現・千駄木5−20−6)は「宮本百合子ゆかりの地」からさらに路地を入り、突き当たった所。
東京美術学校
(現・東京芸大)彫刻科を卒業して欧米留学、ロダンに傾倒する。詩人としては、在学中「新詩社」に加わり、『明星』に寄稿し、「パンの会」にも参加した。
明治45年(1912年)に住居を父の家からこの地に移し、自分で設計した木造・外観は黒塗りの風変わりなアトリエが完成した。以後、ここで数多くの彫刻・詩などの作品が生まれた。大正3年(1914年)長沼智恵子と結婚、昭和13年(1938年)死別後は一人で暮らした。
昭和20年(1945年)4月の
戦災
で住居は焼失し、岩手県
花巻
に疎開した。昭和27年中野区桃園町の中西利雄のアトリエに仮寓。昭和31年(1956年)4月、73歳で没。墓地は豊島区駒込の染井霊園。
−郷土愛をはぐくむ文化財−
文京区教育委員会
この辺りは閑静な住宅地。
薔薇が咲いていた。
高村光太郎旧居跡から団子坂に戻り、鴎外記念本郷図書館を過ぎると、「『青鞜社』発祥の地」があった。
「青鞜社」発祥の地
「青鞜社」発祥の地
文京区千駄木5−3−11
青鞜社は、平塚らいてう(雷鳥・1886〜1971)の首唱で、木内錠子(ていこ)、物集(もずめ)和子、保持研子(やすもちよしこ)、中野初子らの20代の女性5人が発起人となり、明治44年(1911年)6月1日に結成された。事務所はここ旧駒込林町9番地の物集和子宅におかれ、その裏門に「青鞜社」と墨で書かれた白木の表札が掲げられた。
高村光太郎は明治25年(1892年)11月、下谷西町から本郷区駒込千駄木林町に転居、明治45年(1912年)にアトリエが完成。青鞜社結成のことも知っていたはずである。
月刊『青鞜』の創刊号は明治44年9月に発刊された。雷鳥の発刊の辞「元始、女性は実に太陽であった」は有名で、女性たちの指針となった。表紙絵は後に高村光太郎と結婚した長沼ちゑの作である。
青鞜社は初め詩歌が中心の女流文学集団であったが、後に伊藤野枝が中心になると、婦人解放運動に発展していった。事務所はその後4ヵ所移り、『青鞜』は大正5年(1916年)2月号で廃刊となった。
伊藤野枝は大杉栄と結婚。大正12年(1923年)9月16日、甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。
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