このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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下町文学散歩
小石川界隈
〜石川啄木終焉の地〜
東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅を降りて、春日通りを歩く。
東京メトロ丸ノ内線は谷間を走るが、春日通りは高台を通る道路である。
播磨坂を下ると、石川啄木終焉の地がある。
都旧跡 石川啄木終焉の地
石川啄木終焉の地
所在 文京区小石川5丁目11番7号
石川啄木
(1885〜1912)は本名を一といい、岩手県玉山村日戸常光寺に生まれた。はじめ明星派の浪漫主義詩人として出発、小学校代用教員となり、北海道に渡って地方新聞の記者になったが、作家を志望して上京、朝日新聞に勤務しながら創作活動を続けた。大逆事件に遭遇し幸徳秋水らの思想を知り、社会主義の立場にたつようになった。『時代閉塞の現状』で自然主義を批判、詩集『呼子と口笛』、歌集『一握の砂』などの作品を残し、貧窮のなかで病歿した。
明治44年(1911年)8月7日、本郷弓町の
喜乃床
の2階からこの地の借家に移り、翌年4月13日逝去まで居住した。間取りは玄関2畳と4.5畳と8畳(又は6畳)と台所であったといい、移転時には既に病床にあって、文学的活動はなかったという。
都内の啄木の遺跡としては『スバル』の編集所でもあった文京区本郷森川町の
蓋平舘
、本郷弓町の喜乃床
など下宿した家もあるが、この地は啄木終焉の地として指定した。
東京都教育委員会
1つ西側の道に小石川図書館がある。小石川図書館の前の坂は団平坂。
団平坂(だんぺいざか)(丹平坂(たんぺいさか)・袖引坂(そでひきざか))
団平坂(だんぺいざか)の1つ東側の道の途中(小石川5−11−7)に薄幸のの詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の流浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって4ヵ所目である。明治45年(1912年)4月13日朝、26歳という若さで短い一生を終わった。
縁先にまくら出させて、 |
ひさしぶりに、 |
ゆふべの空にしたしめるかな |
葬儀は親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった
等光寺
で行われた。
若山牧水
は石川啄木の死に際し、歌を詠んでいる。
四月十三日午前九時、石川啄木君死す。
初夏の曇りの底に桜咲き居りおとろへはてて君死ににけり |
午前九時やや晴れそむるはつ夏のくもれる朝に眼を瞑ぢてけり |
君が娘は庭のかたへの八重桜散りしを拾ひうつつとも無し |
病みそめて今年も春はさくら咲きながめつつ君の死にゆきにけり |
若山牧水は石川啄木と共に明治18年(1885年)生まれ。ちなみに
北原白秋
も同じ年に生まれている。
与謝野晶子
も石川啄木の死を悼んで歌を詠んでいる。
しら玉の黒き袋にかくれたり吾が啄木はあらずこの世に
再び播磨坂に戻り、坂を下ると植物園前に出る。
更に行くと、小石川植物園に突き当たる。
小石川植物園の南側が御殿坂。小石川界隈は坂が多い。
御殿坂(大坂・富士見坂)
「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは大坂といひしや。」(『改撰江戸志』)
「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能(よ)く見へし故に、富士見坂ともいへり。」(『江戸志』)
白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林侯時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿としわれ、また地名をとり小石川御殿もいわれた。
文京区教育委員会
若山牧水の歌
が書いてあった。
植物園の松の花さへ咲くものを離れてひとり棲むよみやこに
この歌は第5歌集『死か芸術か』の「四月十三日午前九時、石川啄木君死す。」という詞書きで詠まれた4首の数首前に掲載されている。
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