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私の旅日記
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2008年
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三島水辺の文学碑
〜碑巡り〜
三島市の桜川沿いに「三島水辺の文学碑」がある。
「富士の白雪の碑」
富士の白雪朝日で溶て三島女郎衆の化粧水
昭和7年(1932年)、三島水明会建立。
三島の民謡「農兵節」の元詞だそうだ。
宗祇
すむ水の清きをうつす我が心
連歌師宗祇法師が三島の地で東常縁
から「古今伝授」をうけたおりに詠んだ句
『連歌百韻千句集 宗祇獨吟』
=文明3年(1471年)3月27日=より
正岡子規
三島の町に入れば
小川に菜を洗ふ女のさまもややなまめきて見ゆ
面白やどの橋からも秋の不二
「旅の旅の旅」(明治25年 作)より
明治25年(1892年)10月14日、子規は
箱根
を下り三島に入る。
子規は
三島神社
へ。
十返舎一九
日も暮れに近づき、入り相の鐘かすかに響き、鳥もねぐらに帰りがけの駄賃馬追ったて、とまりを急ぐ馬子唄のなまけたるは、布袋腹の淋しくなりたる故にやあらん。
このとき、ようやく三島の宿へつくと、両側よりよびたつる女の声々・・・・・・
女「お泊りなさいませ、お泊りなさいませ」
弥次「エエ、ひっぱるな、ここを放したら泊まるべい」
女「すんなら、サア、お泊り」
弥次「あかんべい」
・・・・・・喜多「いい加減にせい、此処へ泊まるか」
女「サア、お入りなさいませ、お湯をお召しなさいませ」
弥次「ドレ、お先に参ろう」・・・・・・と、はだかになりてかけ出す。
女「モシ、そこは雪隠(せっちん)ござります。こっちへ・・・・・・」
弥次「ホイ、それは」と湯殿へゆく。
東海道中膝栗毛
享和2年(1802年)初刊
若山牧水
宿はづれを清らかな川が流れ、
其処の橋から富士がよく見えた。
沼津の自分の家からだと
その前山の愛鷹山が
富士の半ばを隠してゐるが、
三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、
富士のみがおほらかに仰がるるのであった。
克明に晴れた朝空に、
まったく眩しいほどに、その山の雪が輝いてゐた。
「箱根と富士」(大正9年 作)より
大正9年(1920年)8月15日、牧水は東京から
沼津町在楊原村
に転居した。
窪田空穂
水底にしづく圓葉の青き藻を
差し射る光のさやかに照らす
歌集『卓上の灯』(昭和28年作)より
太宰 治
町中を水量たっぷりの澄んだ小川が
それこそ蜘蛛の巣のやうに
縦横無尽に残る隈なく駆けめぐり、
清冽の流水の底には
水藻が青々と生えて居て、
家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、
台所の岸をちゃぶちゃぶ洗ひ流れて、
三島の人は台所に座ったままで
清潔なお洗濯が出来るのでした。
「老
(アルト)
ハイデルベルヒ」(昭和15年発表)より
太宰治と言えば『富岳百景』である。
これは、岳麓の町の特徴らしく、三島でも、こんな工合ひに、町ぢゆうを清水が、どんどん流れてゐる。富士の雪が溶けて流れて来るのだ、とその地方の人たちが、まじめに信じてゐる。吉田の水は、三島の水に較べると、水量も不足だし、汚い。水を眺めながら、私は、話した。
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