このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2014年

鳥取砂丘〜碑巡り〜
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JR鳥取駅から路線バス砂丘線「子供の国入口」下車。


廃屋となった国民宿舎「砂丘荘」の前に 高浜虚子の句碑 があった。


秋風や浜坂砂丘少しゆく

高浜虚子  明治7年〜昭和34年

 俳人 小説家 松山市生まれ。正岡子規に師事して俳句をはじめ、明治31年より俳誌『ホトトギス』を主宰する。花鳥諷詠の客観写生を説き、同誌の全盛を築くとともに多くの有力俳人を育成し、現代俳句の第一人者として君臨した。

 この句は、昭和7年10月 野火吟社が 虚子 一行を鳥取砂丘に招いた時の作品である。

「鳥取砂丘の絶景スポット」があるというので、坂道を上っていった。

鳥取ゴルフクラブの前に「鳥取砂丘の絶景スポット」があった。


鳥取砂丘「西口」に有島武郎の歌碑があった。


浜坂の遠き砂丘のなかにしてさびしき我を見出でつるかも

有島武郎 明治11年〜大正12年

 小説家。東京生まれ。明治43年、武者小路実篤らが創刊した『白樺』の同人となり、32歳で文学活動をはじめる。その後、同誌を中心に活躍し、『或る女』『生れ出づる悩み』など大正文学の傑作を数多く残した。

 大正12年4月、水脈社主催の自由大学講座の講師として来鳥、30日に鳥取砂丘に案内されてこの歌を詠む。帰京してから1ヶ月余り後の6月9日、軽井沢の別荘で愛人と情死し、社会に大きな衝撃を与えた。鳥取砂丘はこの歌によって一躍有名になったといわれる。

 昭和2年(1927年)8月、 野口雨情 は倉吉音楽協会に招かれ、鳥取砂丘に遊んだ。

 鳥取砂丘「西口」から「夜景スポット」に向かうと、右手に「武郎晶子佗涙の地」がある。

「武郎晶子佗涙の地」に与謝野晶子と有島武郎の歌碑があった。


濱坂の遠き砂丘の中にして

   佗びしき我を見出つるかな
   有島武郎

砂丘踏みさびしき夢に与かれる

   われと覚えて涙流るる
   与謝野晶子

 昭和5年(1930年)5月24日、 与謝野鉄幹・晶子 夫妻は鳥取砂丘を訪れた。

沙丘をば支へんことを思ひ立ち苦菜濱ごう二寸の芽吹く

砂丘踏みさびしき夢に與かれるわれと思ひて涙流るる

ここに來し友先づあらず然るのちその兄弟(はらから)の見してふ砂丘

「落葉に坐す」

平成3年(1991年)6月9日、星座会建立。

 昭和31年(1956年)10月28日、 水原秋桜子 は鳥取砂丘を訪れている。

名高い砂丘は実に茫漠としたもので、幾多の起伏の果てに、濃い藍色をたたえた日本海が見える。このとき雨は小降りになったので、砂の上は歩きやすいままに、私達も四五町歩いてみたが、それ以上歩く気にもならずに引き返した。ここを縦横に闊歩した草堂君や民郎君は実に大雄猛心の持主と感服せずにおられなかった。

「山陰行」

 昭和34年(1959年)1月、 山口誓子 は鳥取砂丘を見に行った。

   鳥取砂丘

大物量砂丘を雪の覆ひたり

寒風の砂丘今日見る今日のかたち

『方位』

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