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私の旅日記
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2013年
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万松寺
〜阿古耶の松〜
山形市平清水の千歳山北麓に万松寺という寺がある。
万松寺入口に
野口雨情の詩碑
がある。
いよゝよあけにや
よあけの明星
親だ子だもの
おやこひし
あこや姫事蹟 雨情
参道を上る。
歴史の散歩道
萬松寺
千歳山萬松寺は今より1300年前に阿古耶姫が開基したといわれている。姫の父は藤原鎌足公の曽孫藤原豊充卿で朝廷の命により陸奥に下って使命を努めておった。姫はこの地にきて生涯を終え、この萬松寺に葬られた。
(千歳山の山名はここに由来する)
しばらくは近隣に住む衆の素朴な信仰の寺として存在していたが、幾年かの後に法相宗の
行基菩薩
が来錫し開山した。その後、天台宗の
慈覚大師
が来山し寺を開創した。後に禅宗の瑩山禅師の法孫が岩手の正法寺を開き、その正法寺三世清厳良浄禅師が
曹洞宗
萬松寺を開山した。
阿古耶姫と千歳山の松の精、名取太郎との悲恋物語と、歌枕としての阿古耶の松は、平家物語・今昔物語・古事談に記載され、名勝古跡として、あまりにも有名である。
滝山地区振興協議会
佛殿(大雄寶殿)
宝暦9年(1759年)、建立。
佛殿の前に赤花下野
(あかばなしもつけ)
が咲いていた。
佛殿右手の石段を上る。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途、万松寺を訪れて句を詠んでいる。
しづと云へかゝりて、山形の城下へ出
ル
。此所より廿丁東、チトセ山を
(お)
のづから松一色にして、山の姿円
(まどか)
なり。梺
二
大日堂・大仏堂、後の梺
二
晩鐘寺、境内に実方中将の墓所有。仏前の位牌を見れば、
当山開基右中将四位下光孝善等
あこやの松、此寺の上、ちとせ山の岨
(そば)
に有けるを、いつの比か枯うせて跡のみ也。はつかし川は、ひら清水村の中より流出る。ちとせ山の梺也。
○秋ちかく松茸ゆかし千歳山
最上市
○野も家も最上成けり紅の花
[無都遅登理 五]
実方中将の墓
左に中将姫、右に阿古屋姫の墓があるらしい。
宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は阿古耶の松を見ている。
○千とせ山 頂上にあこ屋の松を見やりて
鶴の輪の中に山あり秋の松
『露柱先師懐玉抄』
嘉永4年(1851年)頃、桑折の俳僧一如庵遜阿は阿古耶の松を見ている。
阿姑射
(ママ)
松
在山形城東千歳山万松寺后山、姫者豊成卿息女中将之妹ト云々
消えし世の跡とふ松の末かけて名のみは千々の秋の月かげ
又傍に実方碑有、藤中将姫も父を慕ひ此処に終る、墳は其記念となん
『東桜集』
二代目阿古耶の松
明治30年(1897年)10月21日、幸田露伴は万松寺を訪れ阿古屋の松の物語を聞いている。
二十一日、山形に名高き万松寺を訪ふて阿古屋の松の物語りを聞く。中古の僧などの作りけん非情成佛の談、流石にをかしき節も無きにあらず。上の山の温泉に浴して昼餉し、中山赤湯を経て米沢に着く。こゝは同行の乙羽子が故郷なれば、顔見する乙羽子が悦び、顔見るその兄君姉君等が悦び、かたみに隔て無き親族の物語りに秋の一夜も短しと見えぬ。
「遊行雑記」
明治40年(1907年)10月29日、河東碧梧桐は万松寺を訪れ、阿古屋の松の古蹟と中将実方の墓碑を見ている。
午後千歳山の麓にある万松寺に行く。阿古屋の松の古蹟と、中将実方の墓碑というものがある。
ここに阿古屋という美人があった。伝記には藤原豊充の女とある。
ある男と私した。その男は松の精であった。一夕その事を女にあかして行方知らずになった。名取川の橋を架る時その松を伐った。大勢の官人がこれを運ぼうとしても、更に動かぬ。阿古屋が来て木と共に慟哭した。女一人の手で安々と名取川まで運んだ。途中阿古屋は絶えず木と囁
(ささや)
いた。今の仙台の方に越える笹谷峠は、ささやき峠と云うのが本来であるという。
阿古屋はその松の跡に庵を結んで一本の松苗を植えた。その松の生茂ったのがいわゆる阿古屋の松である。この阿古屋の姫を豊成の女中将姫にした説もある。実方が歌枕を尋ねた時、ここに葬れと遺言したという事も伝えられておる。
実方の墓というのは、自然石で、表の方に経文に似たものが彫ってある。阿古屋の松はすでに久しい以前朽ち果てて、今はその跡をも止めぬ。寺も大破に及んで、坐敷の掛物の裏から、蝙蝠
(こうもり)
が飛んで出るほどになっておる。
『三千里』
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