このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

松陰神社〜松下村塾〜
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萩城跡 から城下町を抜けて 松陰神社 (HP)へ。


吉田松陰の歌碑があった。


親思ふこゝろにまさる親こゝろ

   けふの音つれ何ときくらん  寅二郎

解 説

 尊王の大義を唱え国事に奔走した松陰先生の言動が幕府を刺激し、いわゆる安政の大獄により、江戸 伝馬町の獄 に投ぜらました。いよいよ処刑を覚悟した先生が安政6年(1859年)10月20日郷里の両親達に送った便りの中にある英傑の1首である。

享年29歳。

 松陰の両親に先立つ不孝を侘びている気持ちが込められている。

付記
 碑文は松陰の真筆を拡大したもので、寅次郎は松陰の通称である。

井上剣花坊の句碑


偉大なる存在なりし松下塾

 井上剣花坊(本名、幸一)は、明治3年(1870年)に萩市に生まれた。苦学して小学校教師及び新聞記者となり、明治36年(1903年)、上京し日本新聞社に入社した。

 古川柳の精神を生かしつつも、革新的視点の川柳を発表し、俳句の正岡子規に対し、新川柳の井上剣花坊と呼ばれた。

 昭和9年(1934年)、64歳で死去。

 また、妻信子は萩市土原に生まれ、後に川柳を学び、公私ともに剣花坊と歩んだ。

 昭和33年(1958年)、89歳で死去。夫婦の墓は、鎌倉建長寺にある。

松下村塾


説 明

  吉田松陰 は安政4年(1857年)実家杉家宅地内ににあった小屋を改造して8畳の塾舎とし、更にその翌年10畳半を増築した。これが現在の松下村塾で、松陰27才の時のことである。

 ここで松陰が教育した間は1年であり、実家の幽囚時代を通算しても2年半にすぎない。この短い期間に、この粗末な教室から若い松下村塾グループが育ち、安政の大獄で刑死した師の志を継いで尊攘討幕運動に挺身し、明治維新の原動力となった。同志の主な者は激動期に死んで行ったが、生き残った者は維新政府の中枢に立って新しい日本を指導することになった。

萩市教育委員会

国指定史跡 吉田松陰幽囚の旧宅


説 明

 この建物は吉田松陰の父杉百合之助の旧宅であるが、始め家禄49石余の親族瀬能家から借りたものでかなり広い。

 松陰は 伊豆下田港 で海外渡航に失敗して江戸の獄につながれ、ついで萩の野山獄に移されたが、安政2年(1855年)許されて実家へお預けとなり3畳半1室に幽囚されることになった。

 ここで父兄や近親が松陰の講義を聞き、やがて入門者が増えて私塾の形態ができるようになった。この講義は安政4年松下村塾に移るまで1年半ばかり続けられた。

 松陰は安政5年、老中間部詮勝(まなべあきかつ)の要撃を企てたために、野山獄に再入獄前の約1月間再びここに幽囚される身となった。

萩市教育委員会

講義室


 明治43年(1910年)2月15日、 河東碧梧桐 は松下村塾の跡に案内された。

 午後松陰神社詣って、次で松下村塾の跡をも案内して貰うた。松本村というのが、殆ど萩の町つづきで、城下を離れた僻村という感じに疎たったのと、松陰神社の建築が、近郷の某廃社の拝殿を移したというものの、崇高な感更になく、東京附近の淫祠めくさまであったのを意外とはしたけれども、僅に八畳二間と三畳一間ずつの村塾の質樸なのを見ては、敬虔の念が心頭を圧して沸いた。松陰先生が献策書などを書かれる時は、いつもこの二階でありました、と屋根裏の薄暗い、今は物置同様になっておる処を指さした。


松陰神社


勧学堂


 萩市椿東船津にあった品川彌二郎の屋敷内に小祠を建立し(昭和15・16年頃)、品川子爵の霊を奉祀していましたが、昭和60年5月にこの小祠を現在地に移築改修し、勧学堂としたものであります。

 品川彌二郎は15歳で松下村塾に入り勉励を重ね、薩長連携に奔走し、「トコトンヤレ節」 の作者と言われています。松陰先生は「少年中稀覯(稀に見ること)の男子なり」と評されました。

 後に内務大臣を務め、産業組合の普及に尽力しました。また、京都に尊攘堂を建立し、松陰先生の意志を実現しました。現在その霊は松門神社に他の塾生達とともに祀られています。

伊藤博文旧宅 へ。



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