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金ヶ崎隧道
(旧国道8号線)
福井県敦賀市
2007・10・28 来訪

明治中期から昭和30年代後半まで国道8号線・福井〜敦賀間は
『春日野道』と呼ばれるルートを通っていた。
現在の国道8号線のルートとほぼ同じではあるが、
幾つかの区間で旧道として切り離された箇所があり、
その中には隧道が存在した区間もあった。

最も険しい区間にあった『春日野隧道』。
断崖の岬を貫く『 阿曽隧道 』。
そして、敦賀港の玄関口であった『金ヶ崎隧道』。

日本海の重要港を支えた古隧道の今を尋ねてみた。

現R8である。
ファミマがある交差点。
直進すれば現「金ヶ崎トンネル」へ
右折がバイパス、左折すると金ヶ崎城址へ行けるそうだ
実はここへ来た時点では金ヶ崎隧道の場所はよくわかっていなかった。

手持ちのツーリングマップルには当然 旧隧道など載っていない。
一応、ある程度の目安はあったのだが正確な場所は把握しておらず、ここを右折したのも白看板の『金ヶ崎』城址という言葉につられただけであった。

結果的には当っていたのだが。
ファミマ交差点を曲がり、またすぐ十字路。
ここも、「このまま直進したら港行っちまわね?」という理由のみで右折。
しかし、だんだん単なる住宅地道路になっていき不安な気持ちになる。
が、この踏切にあたりようやく安心。
実はこの線路が旧道を探すにあたり目印にしていたのだ。

ローカルムード漂う、敦賀港への向かう線路。
実はこれ北陸線が明治15年に開通した時からある線路なのである。


敦賀港貨物駅坑内。
かつてこの駅は「金ヶ崎駅」とよばれ、北陸線が明治15年に開通した当初の終点であった。
そもそも、北陸線開通当初の目的は日本海航路で運ばれてきた物資を近畿圏へ運ぶことにあった。
鉄道開通により敦賀は大いに栄える事になるのだが、福井県のもう一方の都市・福井へ鉄道が延長されるのは明治29年まで待たねばならない。

その鉄道開通まで敦賀・福井流通ラインを結んだのが春日野道。
近畿圏や船から下ろされた物資を金ヶ崎駅から馬車で春日野道を通り福井方面へ運んでいたのである。

かつての金ヶ崎駅前を過ぎ、お寺の前へ来ると通行止めの簡易ゲート。
簡単な造りなので、まあバイクごと抜けられなくも無い。

ちなみに寺院前で分岐する細道を行くと金ヶ崎峠へ至る登山道があり、峠付近に前述の金ヶ崎城跡がある。
この金ヶ崎峠、北陸の重要地点であるらしく歴史上の重要な戦場となる事が多い。
織田信長がこの地で義弟・浅井長政の裏切りにあい(と言うか先に信長が盟約違反をしているのだが)、討ち死寸前までの危機に陥っている。
この時、秀吉が決死の覚悟で殿を務めたお陰で何とか岐阜まで逃げ切ることが出来た。
この功績で秀吉は一気に織田家の重臣まで上り詰める事になる。

また、室町時代初期には南朝の武将 新田義貞がここで幕府軍と戦っている。

通行止め区間に入り道の両脇から雑草が生えてきているが、アスファルトは自体はそれほど古いものではなくそれなりに走りやすい。

旧道より望む敦賀港。

敦賀港は古くからの日本海交易の中心港であり、
とくに江戸時代には蝦夷地(北海道)貿易で発展し、
明治時代にはロシアのウラジオストック港と定期船で結ばれるようになった。

現在では後発の新潟港が国際中核港に認定され遅れを取ってしまった感があるが
近畿のライダーにとっては北海道方面の玄関であり、
1941年以降、途絶えていたウラジオストックへの定期便も2006年に復活。
港に接続する道路も整備され,大型船が入港できる重要港としての役割を担っている。

旧道を2、3分ほど進むと突然開けた広場に出る。
眼前には巨大な壁のような絶壁。
そして、その絶壁の影に隠れるように『穴』が口を開いている。

金ヶ崎隧道。
明治19年開通の石組みポータルの隧道。
本当に広場の隅にポコッと開いている感じである。
なんか、webで閲覧した時のイメージより小さい感じだ。

この広場、かつては駐車場だったようで、
恐らく下のお寺や金ヶ崎城跡へ訪れた観光客用のものだったのであろう。
経費削減の為に維持できず放棄されたのであろうか?

なお、この廃駐車場のあたりに昭和8年から17年までソ連(現・ロシア)領事館があったようだ。
定期航路で接続していたことから、ソ連と敦賀は関係が深く、
冷戦時代も定期船はないもののソ連の交易船が敦賀に入港していた。

杉浦千畝が発行したビザで日本へ亡命してきたユダヤ人も「ウラジオ〜敦賀」航路で日本でやってきた。
敦賀の人々は命からがらでやってきたユダヤ人に対し暖かく向かい入れたそうだ。

また、1920年代にはシベリアに囚われ過酷な労働強いられていたポーランド人捕虜の孤児を、
日本赤十字社が当時シベリアに出兵していた日本軍の協力を得て救出。
そのとき、ポーランド人孤児を受け入れたのもまた敦賀であった。

以上のように、多くの難民を救ってきた事から敦賀を「人道の港」と呼ばれる事がある。

隧道はそんな歴史をこの高台の上でひっそり眺めてきたのであろう。

扁額には完成年月と「吉祥洞」の文字が刻まれている。
「吉祥」とは「めでたい兆し」の意である
この扁額の書は明治の大人物「山縣有朋」。
洞内は上部煉瓦、下部は石組みである。
見える限り、内部はクリーンで崩落等は見当たらない。
また、現役で稼動している思われるパイプや電線が通っており、
このパイプの為に細々ながら現在も隧道は利用されているようだ。
入口付近に品のない落書き。
キモだめし程度なら構わないが、こーゆうのはやめて欲しい。
内部には待避所が数箇所用意されている。
一車線ほどの幅員しかなく、馬車、後には車と歩行者がすれ違う為に必要だったのであろう
隧道の延長が約290mと春日野3隧道で最も長い。
このように隧道中心部では光が届かず真っ暗。
途中、完全崩壊した軽自動車が放置され、けっこうキモい。
他に「余計なモノ」が落ちてないか結構ビビり気味に進む。

徐々に光が近づき、出口が見えてきた。
数分歩き、トンネルを出るとそこは・・・。
とてもカオスな世界でした。

続く。

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