このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
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明治19年に港町敦賀の玄関口として開通した金ヶ崎隧道。
比較的、敦賀側坑口付近や坑内の状態は良かったのだが、
福井側坑口付近は完全に藪にうずもれていた。
福井側坑口の2007年当時のの現状と
現R8(非バイパス)金ヶ崎トンネルを合わせてご覧頂きたい。
途中、廃車が一台放置されている程度で比較的クリアーな状態だった坑内から一転、福井側坑口へ出た途端この有様。 | ||
更に4、5m程離れると、 ご覧のとおり完全完全に隧道が何処にあるのかさえ分からなくなる。 敦賀側の旧道は手前まで、それほど苦労もせず隧道まで来れる様な状況だったのに こちら側は完全に放置され、道であった痕跡すら殆ど無い。 | ||
福井側が放置された原因がこれ。 隧道を手前の崖下には、広大なセメント工場が広がっている。 福井側の旧道はこのセメント工場の敷地に削り取られてしまったのだ。 | ||
隧道内を潜っていたパイプと電線は、もちろんこのセメント工場へと続いている。 このパイプ補修用の為か、一人が何とか通れるスペースがあり、これを辿っていけば現道へ合流する事もできるようだ。 ただ、自分は敦賀側坑口前にセローさんを置いてきているので、もう一度隧道へ潜る事にした。 | ||
坑口付近が荒れ果てているのと同様、 隧道のポータルもまた状態がよろしくない。 石組みの間に亀裂がはいり崩壊の危険性もある。 正直、放置されているのは敦賀側も福井側も同じな訳だが、 こちら側の方が日当たりが良い分、昼夜の気温の寒暖の差が著しく 石材の劣化が早めてしまうのであろう。 また、植物の植生も当然激しいので、それによるダメージも大きいと思われる。 一応、現役の施設ではあるので 崩壊の際は何らかの修復作業が行なわれると思われるが、 今後の耐久性を考えるとパイプラインを別のルートに変更し そのまま放置と言う可能性も無くはない。 福井の歴史を語るに欠かせない重要史跡なので、なんとか保存して貰いたいのだが、 あえてこのまま朽ちて行くのも時の摂理なのだろうか? | ||
草木に隠れながらも何とか現存する福井側扁額。 左読みで『金崎隧道』と刻まれる。 書は幕末の福井藩主「松平春嶽」。 ちなみに ① で述べたとおり、 敦賀側坑口の扁額の書は「明治政府の重臣」山縣有朋である。 そして福井側は「旧・福井藩主」松平春嶽。 この配置は春日野道と言う道の意義、 強いては福井の歴史において非常に重要な意味を持っている。 同じく春日野道の隧道であった 阿曽隧道 のレポで述べているが、 一度『敦賀県』が「東浦道」と言う道を開削し、福井〜敦賀を結ぼうとした。 しかし、全通を待たず『敦賀県』は分断・消滅し、東浦道計画は立ち消え。 だが明治14年に再び『福井県』として復活。 その『福井県』の事業として「春日野道計画」が立案され、 阿曽隧道改修、金ヶ崎と春日野の隧道が開削された・・・。 詳しい事は春日野隧道のレポで述べる事にするが、 『福井県』という県は「春日野道」の開通をもって始めて成り立った地域なのである。 この隧道の両側に掲げられている扁額はその象徴なのだ。 | ||
さて、こちらは現R8金ヶ崎トンネル。 昭和31年開通とこちらも結構な年代モノ。 開通当時としてはかなり規格の高い隧道であり、狭いながらも歩道スペースもある。 現在も国道指定はされているが北側にバイパスが完成しているので、基本的に敦賀市街地へ出入りする為のローカル運用となっている ちなみに旧隧道と現トンネルはちょっと高さの位置が違うだけで、殆ど隣り合った状態で山を貫いている。 現トンネル敦賀側坑口横から這い上がって旧隧道へ行く事も出来るのである。 | ||
さて、現トンネルにも扁額が掲げられ敦賀側には「吉祥洞」、福井側には「金崎隧道」と全く旧隧道と同じ言葉が刻まれている。 誰の書か確認が出来なかったが、旧隧道と同じ様なパターンだとしたら当時の福井県知事・建設大臣か? このように、現トンネルにも旧隧道と全く同じ文字を掲げている辺り、やはり隧道の開通がこの敦賀と言う町に、更には福井県と言う地域に大きな影響を残した事を伝え継ぎたい、と言う意思が感じられるのである |
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