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1603年(慶長8年)、徳川家康によって江戸幕府が開闢。
それ以後、江戸と京・大坂を結ぶ最重要街道として位置づけられた東海道。
現在もまた東京〜大阪を結ぶ大幹線道路である。
時代時代にあわせ東海道も幾つかの箇所で路線変更が行なわれている。
ここ宇津谷峠もなんと6つもの時代の道が存在している。
ここでは旧道マニアなら興味があるであろう大正・明治の隧道を紹介してみたい。
ではまず、大正隧道から。
仮宿交差点にて現・国道1号と旧道が分岐。 ちなみにここは藤枝市になります。 | |
かつてここいら一体は岩村藩の領地だったそうな。 岩村藩は現在の岐阜県恵那市岩村町を中心とした藩で 1735年(享保20年)に藩主・松平乗賢が老中のなった際に領地が加増され、この区域の支配権を持った。 ちなみに岩村は戦国時代、織田信長にとっての対・武田戦の最前線であった 激しい攻防戦の中、岩村城主・遠山景任が病死。 その城主代行を景任の妻で信長の叔母、ゆうの方が勤めた。 援軍も来ず劣等的な状況で奮闘したが、前線虚しく岩村城は陥落。 ゆうの方は家臣の助命の為に武田軍の司令官であった秋山信友に妻となった。 しかし、信長にしてみればこれは裏切り行為にも等しく激しく激怒。 その後、織田が武田に反攻作戦に出た際、真っ先にこの岩村城を落とした。 そして、秋山信友・ゆうの方夫婦は岐阜に送られ逆さ磔と言う過酷な方法で処刑される。 また、城兵一人残らず虐殺したと言う。 不幸な最後を迎えた女城主・ゆうの方であるが 恵那市に合併された今でも岩村のシンボルである。 | |
話が全然違う所へ飛んだが、道の話へと戻そう。 いかにも『旧・街道筋』といった風景。 | |
朝比奈川を渡る年代モノの横内橋。 扁額チェックを失念したが、恐らく大正クラスの橋ではないか? 完全一車線の橋で、さすがにこれでは現代の交通量はさばけないだろう。 すぐ横に現道があるので、地元民専用橋になっている。 | |
内谷新田交差点。 ここで旧道(横断歩道前の小道)・現道(左手の二車線路)・バイパス(立体交差上)の三つの東海道が交差する。 で、ここから岡部町になります。 | |
東海道五十三次の一つ、岡部宿。 現在も岡部市中心部が旧・宿場町周辺となっている。 旧道沿いには大旅籠柏屋、岡部宿本陣跡といった観光名所が並んでいる。 | |
再び分岐。 直進してしまうとバイパスへいってしまう。 左折が旧道。 | |
いたって交通量の無い集落道。 こんな道でもかつての東海道。 一応現在も県道らしい。 | |
山に近づくと突然立派な2車線路に。 | |
途中、明治隧道への分岐があるが、取りあえず大正隧道へ | |
大正宇津谷隧道。 本当は昭和5年完成なんだが、 一応大正末期に工事が始まったって事で大正隧道と呼ばれているようだ。 うーん、なんツーか当時としては最先端の隧道だったんだろうね。 確かに、明治や大正の隧道の面影はあるが、 やっぱ系統的に現代のコンクリトンネルの元祖って感じがする。 立派な2車線規格だし、何よりもムダを省いた作りがする。 こういう省エネ隧道が作り出される一方、同時期に東北ではモノ凄い ゴツイ隧道 が作られている。 | |
内部もコンクリで明りもバッチリ。 昭和初期の隧道と言うとギリギリ2車線、もしくは実質1,7車線ぐらいのインチキ2車線が多いが、ここは完全フル規格の2車線である。 ただ、歩行者分を入れると多少狭くなってしまうが、それでも十分な復員を持つ。 もし、ここがR1と言う大幹線でなければ現役国道として、まだまだ働けたと思う。 | |
静岡側坑口。 こちらは昭和29年に一度土砂崩れで崩壊。 昭和30年に少し坑内を延長させて復旧させている。 | |
隧道を出て少し進むと、眼前に山の斜面を利用した茶畑が。 いかにも静岡な光景。 ここをΩカーブを描いて山を下っていく。 | |
現・国道一号バイパスを一旦橋で跨いで回り込み、合流していく。 かたっぽが昭和トンネルで、もう一方が平成トンネルであるが、どっちだか解りません。 どっちも高速道路ばりの高規格トンネルで、上下線に分かれて使用されている。 では少し戻って、明治隧道を探索してみよう。 |
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