このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

お宝その8 国鉄時代のパンフレット・チラシ

改札横に何気なく置かれていた国鉄時代のパンフレットの数々。
旅行に行くごとにもらってきたのですが、昭和40年代のパンフレットは引っ越しのたびにどこかに紛れ込んでしまい、そのほとんどが見あたらなくなってしまいました。
昭和50年代になると文房具屋でクリアーポケットファイルが発売され、そこに収めるようになってからは紛失も少なくなりました。
何種類かお気に入りのパンフや、チラシを紹介します。




▲見開きのパンフレットです。昭和47年3月、新幹線岡山開業の時のものです。岡山開業のキャッチフレーズは『ひかりは西へ』。ついこの前のことだったと思いますが、もう33年も経ってしまったのですね。「ディスカバージャパン国鉄」の文字が入っているパンフは当時何でもいただきでした。見開きには新幹線の時刻表が掲載されています。



▲昭和47年7月新幹線博多開業前の博多駅時刻表です。新聞のチラシに入っている壁に貼る大判一枚のものです。17時前の(あさかぜ2号)の出発からはじまる博多駅のゴールデンタイムの部分を拡大してみました。当時の(あさかぜ1号)は下関発なので当然ここに記載されていません。(あさかぜ2号)は20系の豪華編成で東京をめざします。その約30分後にでる 14系(あさかぜ3号) は、(あさかぜ2号)の補完列車でした。(あさかぜ3号)は昭和43年10月の改正で登場し、昭和50年3月の博多開業で廃止になった、目立たない列車でした。



▲博多駅時刻表のつづきです。黄色く塗られた特急列車が目につきますが、その合間を縫って急行列車も健在です。20時42分には(桜島)が延々東京をめざします。東京到着は翌日の昼下がりでした。オロ11やオシ17が健在なのがわかります。桜島のあとは大阪行きの夜行列車のオンパレードになります。一日でいいからこの時代にタイムスリップして、デジカメでありとあらゆる列車の写真を記録しておきたいです。



▲新幹線停車駅に必ずおかれていた見開きの『新幹線』という名の月刊パンフレットです。昭和49年7月号です。新幹線総局が作っていました。国鉄には珍しい?当時としては超ビキニの水着嬢の姿が目を引きます。このモデルも今では50歳代のおばさんでしょうね。
左には湖西線開業を伝える記事が掲載されています。




▲昭和50年3月新幹線博多開業の時の新幹線パンフレットです。中には博多開業の時刻表が掲載されています。
キャッチフレーズは「ひかりライン」でした。



▲それまで近距離切符も窓口販売だった四国総局にはじめて自動券売機が高松駅に設置されたときの、PRパンフです。昭和52年7月のことです。
子どもの切符は赤いプラスチック板を持ち上げてボタンを押す形式です。まだ千円札やオレンジカードには対応していない硬貨専用の販売機です。




▲同じく四国総局が昭和53年3月に出した、急行回数券の宣伝パンフです。当時四国の列車体系は急行列車が長距離輸送の主役で特急は文字通り特別な存在でした。
写真の急行(阿波)はキハ58系の3連ですが、真ん中には、一形式一両の珍車
キロハ28 が連結されていました。



▲昭和60年3月の国鉄ダイヤ改正熊鉄局のパンフです。
東北上越新幹線の起点が大宮から上野に延伸したときのダイヤ改正といえばピーンとくるでしょう。
ところでこのモデルの方どなたでしょう?どこかで見たことがあるのですが。




▲熊鉄局パンフの裏です。昭和60年3月のダイヤ改正は(はやぶさ)にロビーカーが登場した時なのですね。
編成表を見るとまだ食堂車も健在のフル編成なのがわかります。牽引機関車がEF66に変わったのもこのときです。




▲同じく熊鉄局パンフの裏です。ロビーカー登場の記事の下には(みずほ)のカルテットPR記事が記載されています。
昭和25年に登場した4人用個室スロネ30の現代版です。一度家族で乗りたいと思いながらとうとうその機会を逃してしまいました。
その後登場する北斗星やトワイライトなどの個室改造車の布石となった車輌です。




▲国鉄最後のダイヤ改正昭和61年11月の静鉄局のパンフです。「明日へ便利レール、新ダイヤ」がキャッチフレーズでした。これ以後JRになってからは会社単位でダイヤ改正を行うことになり、「白紙ダイヤ大改正」と言う言葉も死語になりました。
白紙ダイヤ大改正の時刻表を書店でうウキウキする気持ちで買ったことも思い出話です。

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