静岡鉄道駿遠線(4/6 昭和36年の記録を中心に)




阿形氏主宰の軽便展に展示されていた駿遠線の発車時刻表。
列車の行き先から推理して、新藤枝〜上新田間のどこかの駅に掲出されていたものと思われます。
軽便鉄道とはいえ、運転本数はかなりの数に上っていたことがわかります。
18時台など4本も列車設定があったとは驚きです。
赤字は当時運転されていた快速列車でしょう。







▲榛原町駅でのバスケットカーキハD5型です。
昭和10年製造のこの気動車は、いかにも軽便気動車の決定版といった車両です。
バスケットまで、金太郎塗りが施されていて、笑ってしまいます。
撮影日は見事な日本晴れで、よく見ますと後方には富士山の美しい全景が見られます。
昭和36年 なまちゃん氏提供






▲相良駅に停車中のハ15が最後尾の客レ。
ハ15はオープンデッキの木造車のようです。
古い客車にカメラを向けるのは珍しいと見えて、
子どもから大人までたくさんの方がなまちゃん氏のカメラに視線を向けています。
小さい子どもが大勢ホームや列車に見えます。幼稚園の遠足でもあるのでしょうか。
昭和36年 なまちゃん氏提供






▲駿遠線の廃線跡を歩くと、当時の駅があった場所に、駅名標の復刻版を見ることができます。
写真は遠州神戸駅跡に立つ駅名標です。
駿遠線には、遠州神戸の他に、
新大坂(しんおおさか)・新横須賀・新岡崎など
有名都市を連想する駅名が存在しました。







▲昭和41年・42年に運行された臨時快速列車(さざなみ)。
榛原町にある静波海水浴場や相良海水浴場への夏季臨時列車だったようです。
写真左は気動車前面に取り付けたヘッドマーク、写真右は車両側面中央に取り付けられたサボです。
どちらも駅員がペンキを塗って、毛書体で書き上げた人間味のあるものです。
阿形氏主宰の軽便展より。







▲海水浴シーズンの企画乗車券。
往復乗車券に海の家の桟敷券がセットになったアイデアもの。
往復軽便列車に揺られて、海水浴ができるとは、今となっては大変な贅沢であります。
阿形氏主宰の軽便展より。






▲海水浴臨時快速列車(さざなみ)はこんなかんじで運転されていました。
(さざなみ)と言えば房総特急しか思い浮かばなかった管理人にとって、
駿遠線に(さざなみ)号が存在したとは初耳でした。
(さざなみ)の本物のヘッドマークを貼り付けた、合成写真であります。







▲相良を出ると駿遠線でゆいいつ存在した小堤山(こづつみやま)隧道。
今でも歩行者・自転車専用道として通ることができます。
いかにも鉄道トンネルという風情が今も残っています。
平成19年撮影






▲相良から南へ4つ目の落居駅。
あたりはずっと廃線跡を利用した自転車道が続いていて、
当時の軽便鉄道の光景をしのぶことができます。
平成19年撮影







▲こちらは落居の次の地頭方駅。
地頭方の「地」の仮名遣いが「ぢ」になっているところが目を惹きます。
駅名標の他、大きな地図と写真が掲載されているパネルが立てられています。
平成19年撮影






▲地頭方駅前で営業していたと思われる「駿遠運送」の看板が、今でも駅前跡地に残っていました。。
雑誌に掲載されている駿遠線の写真を見ますと、「駿遠運送」の看板が目につきます。
あるいは静岡鉄道の子会社で、駿遠線で運ばれる荷物を扱っていた運送会社だったのかもしれません。
平成19年撮影






▲阿形氏主宰の軽便展の会場に展示されていた地頭方駅舎の模型。
簡素であるけれど瓦葺きの駅舎が存在していたことがわかります。






▲蒙古の戦車ことDB60 5号機が、
軽便鉄道にしてはスマートなノーシルノーヘッダーの客車を一両従えて浜岡町に進入する姿です。
浜岡町駅は浜岡町内の南のはずれにあり、さらに南には浜岡砂丘が広がっていました。
昭和36年 なまちゃん氏提供






▲野中駅に停車する単行のキハD9型です。
前面二枚窓の両方にかかるひさしが特徴です。
ツートンカラーの車体は当時流行の金太郎塗りになっています。
昭和36年 なまちゃん氏撮影提供


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