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08年 3月

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526.  3/30 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  心の中でも列車は走る

525.  3/28 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  身軽な移動、大がかりな移動

524.  3/26 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  昔はびわこライナーで酒飲んでいたぞ

523.  3/24 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  彦根姫路あたりならちょっとおでかけ

522.  3/21 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  琵琶湖って小さく思われているのかな

521.  3/20 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  サンデードライバー、休日利用者

520.  3/17 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  心にゆとり、ダイヤにゆとり

519.  3/16 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  春眠暁を覚えず

518.  3/12 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  夜行移動の需要はあると思うのだが

517.  3/11 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  通勤客の野洲知名度は高い、かな

516.  3/9  ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  せめてマラソンランナーより速く走ろう

515.  3/8  ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  恋するブラ

514.  3/5  ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  知らずに乗ると長距離移動

513.  3/3  ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  当時一曲ヒットしてビルが建ったらしい

512.  3/2  ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  現代人には若さが足らない、という宣伝

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  心の中でも列車は走る

 

3/30

昼から雨になった。

もう一度島原へ行こうとムーンライト九州の指定券を持っていたのだが、家の都合で出かけることができなくなり、

泣く泣く指定券をキャンセルしてきた。涙雨だろうか?

明日でまた2つの鉄道が消える。

地元ではないので、大きな感慨があるわけではないが、昔そこに列車がいた、という姿かたちは

自分の目で見ておきたいと思い、島原鉄道南目線と三木鉄道のまだ生きている姿を見ておくことはできた。

見ない乗らないうちに鉄道がなくなるのはわだらんにとって寂しい話だと思う。

 

話は3年前にさかのぼる。

美濃町線を含む岐阜600V線がいよいよなくなる、と2月末に入って急に、岐阜に通いだした。

高校は美濃町線と岐阜市内線を利用して通学していたし、線路から近い自宅には電車の警笛が当たり前のように聞こえていた。

そんな電車がついになくなる、と週末ごとに岐阜に行くようになって、ふと、昔好きだった女の子のことを思い出した。

同じ中学を卒業し、高校は違ったのだが、通学路は同じ美濃町線の踏切を通るので、帰宅時はたまに姿を見かけた。

帰宅途中、電車に乗っていた私を見つけて彼女が私を見つけて手を振ってくれたことがあって、とってもうれしかったのだ。

が、高校卒業後互いに岐阜を離れ、たびたび電話や手紙などをやりとりしていたものの、

彼女は岐阜から離れることができず、私は岐阜に住むつもりはなく結局それ以上彼女との関係が進展することはなかった。

彼女が結婚するときには一報をくれたので、「おめでとう」と素直に言えた。

ある日、写真を撮る合間に意を決して彼女の家に行ってみた。

線路から少し山手に入る落ち着いた住宅街は、いつの間にかずいぶん虫食い状態になっていて、住民世代が変わりつつあると実感した。

それでも彼女の家は昔のままだった。いまにも彼女が玄関から出てきそうな、そんな懐かしさを感じた。

玄関には母親と家族4人の名前があった。

すっかりお母さんになって迫力が出てきているのだろうな、最近元気かな、声が聞ければうれしいな、と思い、

電車待ちの間に思い切ってはがきを書いた。

携帯の電話番号とmailアドレスを入れて、「一度声を聞かせてね」みたいな軽い乗りではがきを書き、軌道敷横のポストに入れた。

 

その3日後、昼休みに携帯が鳴った。

そこに表示されたのはまだ覚えている懐かしい電話番号だった。

こころが小躍りした。

ところが、電話の主はその彼女のお母さんだった。

お母さんは私にもう10年も前に彼女が死んだことを告げた。

しかもお母さんは私にこんな話をしてくれた。

彼女が勤めから帰ってきて、「えらい」といって病院へ行ったまま帰らぬ人になったこと、

幼稚園の娘をそれから母親が育ててこの春中学を卒業すること、私の名前は彼女から何度か聞いていたこと、

そして「思い出してくれてありがとう」と話してくれた。

軽い気持ちで彼女と話ができるかな、と思っていた私にはあまりに悲しい話だった。

その後、彼女の家にわずかのものを持ち、お母さんにいままでのお礼を伝えた。

思い出の踏切横には菜の花がきれいに並んでいた。

 

きっと明日でなくなる鉄道も周囲の人にいろいろな思い出があったのだろう。

せめていい思い出だけでも、多くの人の心の中で走り続けてほしい、と思っている。

岐阜の電車廃止からもうすぐ3年。電車がなくならなければこんな悲しい事実を知らずに済んだのにと思いながらも、

いつか彼女の墓参に行こう、ときれいに咲き誇る菜の花を見ながら考える。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  身軽な移動、大がかりな移動

 

3/28

いつの間にかずいぶんと夕方が明るくなった。

いくつかあまりうれしくないことがあって、とっとと仕事場を離れた。

来週回しにしたというのが正確なところで、正直月曜日のことを考えると頭が重くなるのだが、

空が明るいのがなんとも気分を和らげてくれる。

大阪駅改札を抜けたのが17:35。少し直前の新快速が遅れたのか、まだ乗車列が長くない。

これなら何とか座れるだろうと、と先頭扉の所に行くと乗車位置に家族連れが座り込んでいた。

座り込んでいたというとちょっと言い過ぎかもしれないのだが、桜島線沿線の

某遊園地の土産袋を持ったお父さんお母さんに小学生になったかどうかのおにいちゃんと妹の4人連れ。

子供はおなかが空いたのがおにぎりを食べている。

春休みの家族旅行なのだろうか、子供にいい思い出が作れたらいなぁ、などと人の子供のことを思ってみる。

 

とはいえ、列の先頭にこんな子供を含んだ家族連れがいては、着席がままならないではないか、とちょっと不安。

先頭が通勤のヘビーユーザなら車内に入るタイミングとかが上手なのだが、

いわゆる一見さんではなかなか乗り込むタイミングがつかめないのか、後ろから見ていると少々いらいらする。

もちろん、本来は下車客がすべて終わってから乗り込むべきであることは重々承知しているのだが、

ちょっと下車に手間取る客がいて下車列が途切れたときには、

タイミングを見計らってまず車内に入る、これが着席のこつなのである。

もちろん最終的には下車客がいなくならないことには前へ進めないので、

下車客の通路を確保した上で車内で待つというなかなかのテクニックがいる。

とはいえ、たいていの通勤者はこれが自然にできていて、先頭の人間が上手に車内に入ると

後ろもすっと流れてあっさり着席できたりするものだ。

さて、前がこの家族連れだとどうしたものか、とちょっと思案である。

 

ところが、ありがたいことにこの家族連れ、列を離れると言い出した。

というか両親、つまり夫婦の会話の立ち聞きを失礼ながらしていたところ、

この家族、岐阜まで帰るようで、あとの長浜行きにしよう、と話しているのだ。

確かに長浜行きで米原まで行けば、乗換は1回で済む。

子連れに必要な結構大きな荷物類に大きな土産、そして子供と乗換は大変そうだ。

とはいえ、18:00の新快速は極めてよく混んでいる電車である。無事に座れるかどうか、

ましてや米原で乗り継ぎレースに巻き込まれないか、とちょっと心配。

よほど「野洲まで行って普通電車で米原まで先に進んだほうが...」と声をかけようかと思ってはみたものの、

乗換をよしとするかどうか、わだらんには判断ができず、結局声をかけることはしなかった。

乗換が身軽にできるのは荷物の少ない身軽な通勤者が主であって、

家族連れやお年寄りには乗り換えは負担なのだろうか、と考えてみる。

もしわだらんがあの荷物を持っていたのならどうしていただろうか、やはり悩んでいたかもしれない。

 

そんなわけで17:45の新快速には先頭で並び、あっさり着席。

とはいえ、身軽で立つことに何も不自由のないわだらんがそこまで着席にこだわらなくてもいいかな、

とちょっと我が身に反省してみたりもする。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  昔はびわこライナーで酒飲んでいたぞ

 

3/26

吉野屋の牛丼が大阪駅にできる、とニュースリリースに出ている。

でもよく読むとできるのはラッチ外、フロートコートの中なので、わざわざ出向かねばならぬ。

これではホームで電車を見たついでに、というわけにはいかない。

ラッチ内、特にホームのうどん屋というのは、食べながらでも行き交う電車を見ながら食べられるのがいいところであって、

フロートコートにあるのならそこらの飲食店となんら変わりがないぞ、と突っ込んでみたりする。

昔から駅の軽食堂にはずいぶんとお世話になっている。

旅行先でも、日頃の利用でも。

まだ米原の乗り換えがのんびりしていた時代は何度となくそばを食べ、

姫路でも鳥栖でも、そして高松でも、ちょっと数分時間があれば、麺類を食べていた。

昔はほんとうにホームに吹きさらしのものがほとんどだったのだが、最近は建屋に入ったものが多くなった。

何か衛生上の問題でもあるのか、あるいは当局の指導でもあるのだろうか、と思う。

姫路も高架になって箱ものの中に入ってしまい、電車のすぐそばで食べられる楽しみが

ちょっとなくなってしまったのは残念だ。

 

ホーム上の軽食堂というと、名鉄がすぐ頭に浮かぶ。

愛知万博や空港開港で名鉄名古屋駅はずいぶんこざっぱりときれいになっているが、昔の新名古屋の時代には

ホーム奥にうどん屋やカレー屋があったり、立ち飲み屋があったりと賑やかだったものだ。

うどん屋が酒を出すところは多く、というかほとんどのうどん屋で酒があって、神宮前あたりの大きなところだと

立ち飲み屋が単独でホーム上に店を持ったりしていた。

最近出かけていないので事情がわからないのだが、今でも神宮前や金山には飲み屋があるのだろうか。

あまりきれいな店構えではないのだが、それがまた庶民的だなぁ。

 

このところ比較的早い時間の電車に乗ることが多く、車内であまり酒盛りをする人間に逢うことがない。

もちろん酒盛りといっても勝手にコップ酒を一人で飲んでいるばかりで、

大勢で騒いだりするわけではないのだが、でも何となく楽しそうでもある。

本当に疲れた人間は座るとすぐに寝てしまい、酒盛りどころではないのだろう。

まだ酒を飲みながら帰れる元気、いや酒を飲むから元気なのかもしれないのだが。

 

19:00の新快速で大阪から着席し、のんびりと野洲駅に帰ってくると、

いつの間にか改札前(外側だが)のKIOSKがICOCA対応になっているのに気がついた。

ふらっと寄るとやはりワンカップが置いてある。

ちょうど某電子部品製作所からのバスが着いたのだろうか、多数の客が上がってきたが、酒を買う人間はいなかった。

みんな通勤が比較的近い距離なのだろうか。

まぁ大阪から高槻までの客が酒を飲んでいるなどということはほとんどないし、

野洲での下り方向ならやはり石山あたりまでがほとんどなのだろう、と思う。

電車なら帰宅途中に酒が飲めていいな、とはわだらん自宅近所に住んでいるマイカー通勤のだんなの言葉。

まぁわだらん的には酒より前に電車に乗るのが通勤の目的でもあるのだが。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  彦根姫路あたりならちょっとおでかけ

 

3/24

日曜日に姫路に行って来た。

もともと出かけの目的は厄神だったのだが、せっかく18きっぷを購入して出かけたので、ついでに姫路まで足を伸ばしてみた。

といっても姫路など大阪からわずか1時間、とても足を伸ばしたと言えるところでもないような。

なにせ毎日片道1時間電車に乗っている身である。

とても大げさな距離ではないなぁ、といってもそれはわだらんの感覚であって、一般人からすればやはり姫路は遠いところか、と思う。

きっとわざわざお出かけするところなのだろう。

でも旅行とまで大げさにはきっと言わないなぁ。

 

既に高架になった本線ホームはまだ真新しく、こざっぱりとしている。

とはいえ、単なる2面4線になってしまい、なにか拠点駅としての風格が全くない。

昔は姫路というと線路がいくつも並び、地下と高架の両方の通路がホームと駅ビルを結ぶ大きな駅の印象だったのだが、

いまではホームの規模だけで言えば南草津あたりと変わらない。

その風格のなさというか頼りなさというか、なんともつまらなくなったものだと思う。

もちろん今のご時世、機関車の付け替えも列車編成の入れ換えもないのだから、必要以上に線路を持つ必要はなく、

コンパクトであればあるほどコストもかからず事故にも繋がらず、わかりやすいのではあるのだが。

そんななか、まだ以前のまま残っている中央の改札口横に精算所窓口があるのを見つけた。

もちろん「精算所」と書かれた看板も元気である。

ガラス越しにここまでのきっぷを出して精算をする、ごく当たり前にあったものだが、

今となっては何か無性に懐かしいもののような気がする。

 

以前からきっぷを買わなくなったとは思っていたのだが、

確かに切符を買わないどころか精算もする機会がめっきり減った。

少なくとも大阪市内あたりで乗り越しの時はICOCA定期でそのまま出場してしまう。

精算をするときといえば、せいぜい金券屋で買ったばら売り回数券を複数枚使うときくらいか、

それでもたいていは精算機でことが足り、わざわざ窓口に行くことは最近あっただろうか?と思う。

もちろんこの姫路の精算所も手持ちぶさたで、少なくともわだらんが精算所近辺をうろうろしている間には

誰も窓口に足を運ぶことはなかった。

たいていの人間は仮に精算の用事があったとしても改札の人間に声をかけるだろうし、それが今となっては自然の流れに見える。

精算窓口にわざわざ立ち寄る人間は昔の人間ではないか、と思う。

本線ホームはずいぶん単純になってしまったが、そんな駅施設がかろうじて残っている間に

意図せずでは訪れる機会があったのはよかったな、と思う。

まだ地平に残る播但ホーム入り口にあるまねき食品のえきそば店には「列車内への持ち込み容器は廃止になりました」などと

いった張り紙が残っていたが、逆に思えば昔はホームのそばうどんを車内に持ち込めたのだな、と思い出した。

姫路でも米原でもそういえば持ち込み容器20円だったっけ。

 

うろうろしているうちにすぐに時間は経ち、再び本線高架ホームに戻る。

やってきたのは播州赤穂発野洲行きの新快速。

小グループや夫婦二人連れで適度に埋まった車内は姫路での大量の客を飲み込んで、ドア付近はざっと10人ほどの立ち客が出た。

これではとても車内でそばを食べるなどできる状態ではないなぁ。

というか、そもそも昔なら普通列車で2時間弱かかったところが今や1時間、しかも15分待てば次がくる。

これなら、ホームで食べて次に乗れば充分。

隣町ではなく小旅行の感覚であったとしても、簡単に日帰りで行楽に出かける距離に縮まると、結局駅もコンパクトになってしまうのだろうな。

新幹線ですら、切符を買わずクレジット決済のICカードで乗れる時代、

昔のように出かけることをワクワクするような距離とは今はどれくらいなのだろうか。

 

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  琵琶湖って小さく思われているのかな

 

3/21

琵琶湖環状線の利用者が伸びないと悩んでいるらしい。

滋賀県からすれば、巨額の資金を投入し、電車も便利になったのに、という思いがあるのだろう。

確かに湖西湖北間を結ぶ電車は昔に較べれば格段に便利になったし、

少なくとも大回りをする人間が増えているのはわだらんが見る限り事実に思う。

とはいっても、肝心の地元の利用者が増えないのは確かに残念である。

そういえば今からもう20年も前の話だが、米原木ノ本間には8号線経由の路線バスが20分おきに走っていた。

しかも大津彦根米原から東京への夜行の高速バスが走り出した当時には、深夜バスとして

湖北から東京行きバスに接続する便があり、しかもそのバスはそのまま新幹線を受けて湖北に帰る、なかなかすぐれものであった。

その当時は北陸線のローカル列車などあてにならない、汽車の時代そのままで、とても地元がちょっと移動に使える代物ではなかった。

それでも客車が電車になり、JRになり、長浜直流化と、北陸線湖北の普通列車は確実に増えてきた。

長浜直流化では、長浜から米原、彦根への路線バスを壊滅させ(言葉が悪いかな)、

停車列車がまれであった坂田を8両の新快速が停まれる駅に変身させ、長浜を京阪神からの一大日帰り観光地に仕立て上げた。

この功績たるものなかなかのものであろう。

ただ、長浜に較べるとやはり湖北、虎姫や木ノ本は京阪神から見るとインパクトに欠けるような気がする。

外部の人間が多数来ることによって、地元はまた元気になるのだろうが、いまのままでは弱いような、

むしろ日帰り客がみんな敦賀に吸い取られているように思える。どうしたものだろうか。

 

そういえば、先日わだらんが野洲に住んでいることを知っている職場の人間が、サラダパンを買ってきてくれと唐突に言ってきた。

わだらんはサラダパンなるものを知らなかったのだが、調べると木ノ本のパン屋のものらしい。

どうも野洲と木ノ本は隣町の感覚だったようで、なかなか距離感というのは現地を知っている人間でない限りは難しいのだろうな、と思う。

そう考えると地域のPRとは一筋縄ではいかないのだろう、と湖北の苦悩に思わず同情してしまう。

 

水曜日のことである。大阪18:00の長浜行きに乗る。

既にホームに入っている電車に乗った状態では座れるなどあるわけなく、新大阪下車客を狙えるわけもなく、とりあえず通路にだけ入ってみた。

座席に座っているのはおねえさんとそのお母様か、本線の冊子時刻表の北陸線のページを開いて到着時刻がどうこう言っている。

そうやって湖北から出てきたと思われる人を見かけると、ちょっとうれしい。

もっとも、そんな客の前に立っても座れないけどねぇ。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  サンデードライバー、休日利用者

 

3/20

いつのまにか3月も半ばになってしまった。通勤する沿線には梅の花が美しく咲いている。

最近歳を取ったのか、花の色なんぞにもちょっと気にするようになってきた。

もちろん桜の季節ともなればさらに華やいだ雰囲気になるのだろうけれども、

並木が多い桜に対して梅は比較的単独で咲いているものが多く、気づくとちょっとうれしかったりする。

ただ、桜の季節になると視界が効かず、ぼんやりとした空気になるのはちょっと残念。

すかっと晴れて、遠くの山が見えるのが梅の季節というと大げさか。

 

週半ばの休みの日、風が強く湖西線の特急は迂回。

田畑の広がるあたりまで見に行こうかとも思ったが、どんよりとした曇り空。

ただでさえコンデジでは走行中の列車を取るのが難しいのにこんな曇天ではますます写しづらいなぁ、

と写真撮影はあきらめ。

まぁこんな日は駅で少し電車の観察でもしよう、とふらふら出かけてみる。

 

が、駅の中は天気に関係なくとてもにぎやか。

子供連れだの、出張者ふうだの、窓口前に列を作っているし、改札前ではわいわいがやがや。

高校生の集団も、子供を抱いた母親も、と休日の日中は駅の中はなんとなくやかましい。

まぁ、こうやって駅に活気があるのはいいことだ、人が集まるのはいいことだ、と思う。

こんな天気でも北から降りてくる新快速はよく乗っている。

野洲に着く時点で既に車内には立ち客も多く、やはり人の動く時期なのだろうか。

12両の下り新快速だと、編成後ろは比較的空いているのだが、一見さんの一般客はどうしても編成前部に集中しがち。

野洲で12両編成の後方部までいくのは階段から遠いので、そこまで熱心にホームを歩く客はいないようだ。

まぁ、休日の出かけの客はおしなべて着席に固執しない場合が多く、

わざわざホームを歩いて行かなくても適当なところで乗っていく、のが多いよう。

これが帰りになると大阪駅で意地でも座ろうと慣れない客がルール無視したなのだが。

 

この時期、野洲で長時間停車する電車はドア扱いを半自動にしている。

今日のように肌寒く風の強い日には車内を保温する有効な手段である。

通勤時の夜では、結構多くの客が閉まったドアを自分で開けた際、ドアを閉める。

車両から降りる場合でも閉めボタンを押して出てくる。

一人が降りるなら、閉めボタンを押してからでも充分車外に出ることができ、ドアはちょうど閉まるのだ。

ところが、休日日中だとそんな律儀な客はほとんどいない。開けたら開けたまま。

まぁ、雪が降るような天気でもないのだから、と目くじら立てる必要もないが、

毎日の利用客とたまにしか乗らない客の意識の差がかいま見えて面白いものだ、と思う。

 

野洲駅の改札前からはよく晴れた日は伊吹が見えるのだが、

今日のようなどんよりとした天気ではせいぜい八幡山が見える程度。

雪が解ける前にもう一度伊吹の雄姿を野洲から見られるだろうか、いい天気の遠くが見通せる休日がやってこないか、

とあさっての週末をもう心待ちにしている怠け者わだらんである。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  心にゆとり、ダイヤにゆとり

 

3/17

ダイヤ改正後の通勤初日である。

今まではダイヤ改正というと新車が入ったり、列車が増えたりとなにかわくわくするものが多かったのだが、

最近の本線、つまり琵琶湖線やJR京都線のダイヤは、むしろ改正のたびに少しずつ悪くなっているような。

もちろんきっかけは2005年4月の列車事故がきっかけであるが、それ以降ダイヤのゆとりが重視されるようになって、

ついに今回の改正では朝の通勤時下りで大きな余裕が取られるようになった。

なにしろ04年10月改正で設定された野洲始発の新快速、3407Mの場合、当時も今も大阪着は7:53であるが、

野洲発が当初6:54だったのに、今回の改正では6:48となってしまった。

06年3月改正で一度繰り上がり、今回さらに3分も繰り上がり、最速の時代よりも6分も遅くなってしまった。

その3407Mに改正初日に乗ってみることにした。

月曜日で乗客は多く、野洲を出る時点で11号車の前向き席はほぼ埋まり、立ち客もぱらぱら。

守山で4人がけもすべて埋まり、満員御礼いつもの通勤電車の様相である。

時刻が繰り上がったといっても列車の速度自体は変わっていないので、乗ってみると各停車駅でなんとも間延びした印象を受ける。

もともと草津で一呼吸停車していたのだが、今回さらに停車時間が延びているし、

石山でも大津でもとっくに客扱いが終わってホームが閑散とした頃にぼちぼち出るか、の雰囲気である。

もちろん闇雲に速く走れとも、遅れ覚悟でいいから限界まで走れ、などと言うつもりは全くないのだが、

なんか余裕があり過ぎるというか、そこまでゆとりがなくてもいいだろう、という印象を受ける。

たしかにこれだけ余裕があれば、少々の遅れ、例えば傘をドアに挟んだとか、濃霧で徐行した程度の遅れは吸収できそうだし、

先行列車で詰まってもダイヤは戻りそうな気がする。

でも最近特に「羮に懲りてなますを吹く」的な、いわば過剰反応のようなものが多いような気がしてちょっと嫌になる。

2分程度までの遅れならそう案内でいちいちお詫びもする必要がない、とわだらんは思っているのだが、

それでもやはり噛みつく人間はいるのだろうし、そもそも昔は列車は走らせてナンボのものだったのに、

最近は何か不安材料があるとすぐに運休だの速度を極端に落とすだの、とそこまで必要なのだろうか?

と少し気にする。

とはいえ、このゆとりのおかげで「いつも予定通りに電車が走る」と一般客が思えばしめたもの、

普通の乗客からすれば列車は定時運転が当たり前なのだから。

 

京都までで3分も余計にかかる新ダイヤの3407M、走って休憩を繰り返して京都定時着発、そして大阪ももちろん定時であった。

京都までの間延びした感覚が抜けないのだが、それでも大阪駅に延着なしで滑り込むと、

時刻通りのこれが当たり前、とあらためて思う。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  春眠暁を覚えず

 

3/16

春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、確かに眠りから覚めない。

ずっと寝ていることができればありがたいのだが、なかなかそういうわけにも行かず、それなりに起きて活動しなければならぬ。

まぁ、春でなくても年中眠いのではあるが。

 

とはいえ、15日の朝はがんばって起きねば、とちょっと気合いを入れた。

本来休みなのでのんびりしていればいいのだが、やはり消える列車の最後はちょっと気になる。

6:12が下り銀河の野洲通過時刻である。

前日、せっかく711Mに乗って、銀河と併走するところを写真に撮ろうと意気込んだのだが、

大津を過ぎて結局眠ってしまい、気がついたらもう上淀川橋梁を渡って大阪駅にまもなく着くところであった。

こんなことでは鉄ヲタ失格かいなと少々自己嫌悪。せめて最後の朝はがんばって起きよう、と眠りにつく。

結局予定より少し遅くではあるが、目が覚めて、最終銀河の通過には間に合った。

大阪まで追いかけるという手もあったのだが、野洲通過を見守る方がなんとなくわだらん的か、と最寄りの踏切で待っていた。

まぁ結局あっさりと列車は通過してしまい、行ってしまえばこんなものか、という感想しか残らないのだが。

まぁ新聞やテレビの報道では東京でも大阪でも大騒ぎというか大変な人出であったので、まぁ地元で見守るのがよかったのか、と思う。

 

その後わだらんは京都へと向かい、なは・あかつきの最終列車の到着を見に行った。

京都ではこの列車は0番線到着で、その後鴨川橋梁上に引き上げ、7番線に転線し、向日町へと帰っていく。

そのため、到着ホームの反対側ホームからもよく列車が観察できて大量の人出でも適度に分散する、と読んでいた。

実際、大きな混雑もなく、というかわだらんが列車の先頭のような人の集まるところに行かなかったこともあって、ゆっくりと列車を見送ることができた。

子供が多かったのがちょっと印象的。ほとんどの子供はおそらく寝台に乗ったことはないと思うのだが、どうだろう?

 

しかし、京都到着のなは・あかつきはまぁ下車準備しているのが当たり前にしても、野洲通過の銀河でもずいぶんと人が起きていた。

踏切ではB寝台の寝台側を見ていたのだがほとんどのブラインドがもう上がった状態であった。

野洲では6時とはいえ、明るくなっていて車窓を楽しむには充分ではあるものの、でももともとが夜行列車、寝台車である。

どうせ東京23時発ですぐには眠らなかったのだろうに、といらぬ心配をする。

まぁ興奮して眠れなかったか、最初から寝るつもりがなかったか、いずれにせよ、みなさんご熱心なことだ、と尊敬してしまう。

結局京都から帰ってきたわだらんは家に着いたとたんにちょっとうとうと。

やはり人間睡眠が大事である、といつも夜更かしのわだらんが自分にぶつぶつ言ってみる。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  夜行移動の需要はあると思うのだが

 

3/12

全く世間で騒がれずにすっかり忘れていたのだが、この3月10日は新幹線が九州博多まで延びた日である。

東京から博多までざっと1000km、この長い距離を高速列車でつなぐ世界でも類のない路線ができた。

もともと新幹線が走り出した当時は、乗車時間が3時間程度と短く、車内の設備は質素であった。

新幹線が走る前に東海道線を走っていた特急には豪華な展望車や食堂車も付いていたのだが、

新幹線では食堂は立ち席主体の軽食堂となり、一等車も座席のみの簡素な設備になった。

もちろんそれでも問題はなかったのだ。

このメルマガを読んでいただいている方の中で、かつて新幹線の座席というと、

背づりの転換する青いシートであったことを覚えておられる方はどれくらいであろうか?

が、さすがに新幹線でも6時間を超えるとなるとちょっと豪華なものでも、という話は当然でてくるわけで、

博多開業前には寝台や食堂の設備を持った試作車が登場してくる。

食堂車はほぼこの試作車を元にしたものがのちに実際に使われることになったが、寝台車は実現しなかった。

博多開業前には新幹線の夜行列車が計画されていて、深夜新幹線線路の保守時間は

複線のうちの保守しない線路を使った単線運転として列車をさばく計画であった。

西明石・姫路・相生と比較的短い距離で駅が続くのは、この単線運転を考慮したもの、と聞いている。

東京を22時に出て、博多6時着なら十分利用価値はあるし、飛行機にも勝てるものか、と思う。

もし夜行新幹線が運転されていれば、今の世の中でも生き残れるだろうか?

 

野洲駅に深夜23時過ぎに出かけ、いよいよあと2日となった急行銀河を見に行く。

静まり返った駅を列車は定刻で通過していく。

名残惜しいとは思うが、やはり寝台では東京大阪間の夜行移動勝負には勝てないのだろうと思う。

寝台券を含む運賃なら新幹線+安いビジネスホテルとあまり変わらないし、かといって移動するだけなら夜行バスに運賃では勝てない。

何か手を打てば何とかなったとは思うが、中途半端なままずっと放置されてきたというのが実際のところではないかと思う。

それでもなくなるというと大騒ぎするのが鉄ヲタの定め、通過する列車を見ていると窓のブラインドはほとんどが上がっている。

みんな寝台に入らず、通路に座って外を見ているのだろう。

どうもあの調子だと遅くまで、名古屋あたりまでみんなうろうろしているのだろう。

「夜も更けて参りました」で始まる車掌のお休み放送もこれでは冴えないだろうなぁ。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  通勤客の野洲知名度は高い、かな

 

3/11

今度の改正で、夜の上りT電、つまり琵琶湖線内の普通電車の一部に時刻差し替えがある。

つまり長浜行きと野洲行きの時刻交換が行われ、結果として京都基準では日中は野洲米原が交互に、

16時から19時台は米原行きのみ、そして20・21時代は再び米原野洲行きが交互に来る、

わかりやすいダイヤになった。

もっともその分、今までわだらんがお気に入りの大阪18:08の野洲行きは米原行きに変更になるので、

今までのようにまったりとした車内ではなくなるかもしれない。

 

ある駅を境に列車本数が減るところは多い。

一般的に末端区間が閑散になる路線はほとんどがそういった段落ち駅があり、列車本数が減っていく。

例えば日中の近鉄大阪線だと、急行準急に普通を合わせて、毎時12本の電車が上本町を出て行くが、

高安で2本減り、国分で4本減り、榛原で3本減り、そして青山町で2本減ると、

最後の区間まで走る電車は時間1本、とだんだん寂しくなってしまう。

もちろん野洲もその段落ち駅の一つで、ここを境に列車本数は減る。

昔は野洲行きというのはあまり目立たなかったのだが、安土行きが米原まで延長される一方、

草津までの電車は野洲まで延長が続き、いつの間にかT電は野洲と米原が交互に来るダイヤが安定してしまった。

篠原なんぞでは野洲からそう離れているわけでもないのに、終電は早く、

日中の本数も少なく、割に合わない部分は多いように思う。

 

大阪18:45の3510Mに乗る。

ホームに上がったのが18:40で、既に乗車の列が延びてはいたのだが、先頭のおじさんが車内に上手に入ったおかげで、

先頭から4人目でも無事に窓側を確保。

このあたり、先頭の客がどう動くかでかなり差が出るところで見極めが難しい。

とはいえ、無事に座ってしまえばあとは熟睡。

目が覚めると既に電車は草津を出て、車内もずいぶん空いてきた。

とはいっても前後の野洲行きと違い、この3510Mは野洲で米原行き普通電車に乗れるので、

篠原以遠の客が多く、なかなか野洲近くでもがらがらになることはない。

ホームに着くと普通電車乗換客、改札へ向かう客、狭いホームを民族大移動。

まだこの先を急ぐ方々は大変だと思いつつ、次もまた野洲止まり新快速表示に

なんとなく野洲行きを見るとうれしいと思うわだらんである。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  せめてマラソンランナーより速く走ろう

 

3/9

週末、三重県の津に帰ってきた。新名神開通の影響か、往復とも鈴鹿峠の国道一号線は

大型・乗用ともに少なく、ずいぶん快適であった。

とはいえ、にわかに大型が新名神に移る、とは思えないので、おそらくはご祝儀で高速利用してみる、

といった感じではなかろうか。

旧土山町内で国道一号の上を高い大きな高架橋で新名神が越えて行くが、

あの橋を見上げるとなんとも大がかりというか、大げさというか、すごいものだと思ってしまう。

もとから鈴鹿峠を越える方が名古屋京都は近いのだが、一直線の路線設計、

つまり地形を無視してあれだけ直線に高速道路が建設できるのは驚きである。

こんな状態では地形に沿って右左にうねうねしながら走る昔からの鉄道路線はひとたまりもない。

新名神ほど大げさではないにしろ、福知山線谷川とか紀勢線簑島とかのように

高速道路が直線でショートカットしているところは多数ある。

在来線の劇的な路線改良はお金の出所もなく、陳情運動もなく、難しいからなぁ。

 

津市内には需要から取り残されて不運にも廃線となった鉄道の遺構が数多くある。

岩田川に架かる旧近鉄伊勢線の鉄橋など最たるもので、今でも電車の線路であった雰囲気をよく伝えてくれている。

野洲から車で津に向かう際は、関で国道一号と分かれ伊勢別街道に入る。

この道は途中旧芸濃町林から椋本まで安濃鉄道の線路敷を道路にしたもので、なだらかなカーブはまさに線路そのもの。

さらにかつての安濃鉄道と平行して車を進め、津市内に入っていく。

この安濃鉄道は戦前に運行停止になった軽便鉄道なのだが、今なら当時の路線はすべて津市内に収まる。

もし現世に鉄道が生きていたら第三セクターかあるいは

市営鉄道で残っていただろうか、などとくだらない想像をしてみる。

とはいえ、何しろこの安濃鉄道、14.5kmを1時間かかるのんびりとした鉄道であった。

42kmを2時間20分で走るマラソンランナーの平均時速は18km。

ということはこの軽便鉄道、マラソンランナーよりまだ遅い、ということになる。

これではとても生き残れまい。

 

春の日ざしになった日曜日の午後、名古屋市内を走るマラソン選手を見ていた。

給水のボトルに各個人が目立つよう、取りやすいように輪をかけている。

輪を腕ですっとすくう。まるで昔の駅通過列車だなぁ、と。

タブレットを知らない若い人たちには、今のマラソン選手の知恵が昔の鉄道と一致するだろうか。

もちろんわだらんは紀勢線や関西線で当たり前のように見ていた光景なのだが。

 

もし叶うものなら、まだ汽車が主役の時代、それこそ国道もまともに整備されていない、高速道路などない、

そんな時代で各地に軽便鉄道が走っていた頃を旅してみたい、と常々願っている。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  恋するブラ

 

3/8

以前、おねえさん、特に昔のおねえさんの下車駅は読めない、と書いたことがあるのだが、

最近はその鉄則を守っているせいもあって、よく座れる。

大阪駅9番ホームに列車と同時に駆け上がって、長い乗車列の後方から車内に入って、で新大阪でまんまと座っては、

長い時間ホームで待っていたみなさんに少々気が引けるのだが、でもやっぱり座る。

 

さすがに3月、18切符の季節になると電車が混む。というか、大阪18時発の3500Mはもともと座りにくい電車なのだが、

最近特に顕著。

大阪を越える車内滞留客が多く、空席がでない。

しかもおばちゃん連中はなぜか先頭車に集中し、かつ姫路で座席の向きを戻さないのか、

中途半端な後ろ向きや4人がけで座っている。

いちいち目くじらをたてたところで仕方がないものの、やはりいつも乗っている通勤者から見ると異質の存在である。

赤穂や岡山の帰りなのだろう。

しかしこんなグループでおでかけの昔のおねえさんは元気である。

おじさん連中は仕事をやめてしまってから男連れでのグループ旅行なんというのはあまり聞いたことがないが、

昔のおねえさん方は連れだってのちょっとした旅行が本当に多い。

まぁ家を空けられない、とかで日帰りになるのだろうけれども、京阪神からの赤穂や長浜あたりは

格好の18族、グループ小旅行にぴったりなところなのだろう、と思う。

だいたいわだらんも含めた男どもはどれだけ遠くに行けるか、どれだけ元を取るかばかり気にするが、

こういったおねえさん方はそんなに遠くでなくてもちょっとした非日常があれば、それで充分、ということなのだろう。

でもそれが鉄道利用者の裾野を広げているのは間違いないと思われ、実際某息子が日本最長片道切符旅行で

肥前山口に着いたとき、駅に見に来ていたギャラリーの大半は昔のおねえさんであったような。

最近の雑誌、特に大人の雑誌には豪華寝台特急やローカル線といった鉄道旅行記事が

煽り立てるように特集されているが、でも昔のおねえさん方がよほど身近な鉄道旅行の楽しみ方を知っているような気がする。

 

幸いにも出張鞄を持ったおじさんの横に立ち、狙いは当たって新大阪であっさり着席。

前の方で大きな声を出しておねえさん方が歓談中。とてもおじさんの通勤風景にミスマッチ。

でももっとミスマッチなのは車内を埋め尽くした女性用胸当てのポスター、胸当てだけでほほえんでいる異国のかわいい女性の笑顔か。

そう、電車は某ドイツの下着メーカーの貸切広告車であったのだ。

黄色、水色、茶色、いろいろな場面での胸当てが並ぶ、おしゃれな車内である。

相変わらず大きな声で歓談中のむかしのおねえさん方も、こんな胸当てをしている時期があったのかな、

といらぬ想像をしては見るが、それ以上考えるのはやめておこう。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  知らずに乗ると長距離移動

 

3/5

いつものように野洲6:16の713Mに乗る。早朝の野洲はさらっと雪が積もって、家の屋根も車も、そしてホームの端も白くなっている。

それでも以前ほど寒く感じないのは体が慣れたせいだろうか?

713Mに乗ると、野洲で銀河を横目で見、新大阪でなはあかつきとすれ違い。

野洲で銀河を撮影しようとする人間はさすがにいないが、新大阪では平日でも結構な人間がホームで待ちかまえている。

確かに大阪駅よりは撮りやすいし。

長距離列車がなくなるのは寂しいものだが、夜行需要が少ない今となっては仕方なかろう。

今回の改正でなは・あかつきが消えると、大阪からの九州行き在来線の定期列車はなくなってしまうのだが、

何しろ今のご時世、新大阪から博多へ向かう新幹線は時間4本もある。

以前のように列車を指定して旅行するような時代ではなく、きた列車に乗る、それが当たり前になってしまった。

500kmもの距離を一般の電車と同じような感覚で乗る、なかなか考えるとすごいもの、悪くいえばずいぶんと安っぽくなったものだ。

 

ところで、日本で現在のところ一番長い距離を走るのは大阪札幌間約1500kmを走るトワイライトエクスプレスであるが、

実際にはもっと長い運転距離の列車がある。

札幌福岡間を走る列車がそれである。

といっても一般には乗ることのできない列車、つまり貨物列車である。札幌を夜出ると、翌々日朝に福岡に着く長丁場。

コンテナの一つを部屋にしてそのまま載せてもらって移動などできれば面白そうだが、あくまでも妄想の話。

実際なら退屈してしまうだろうし、なにより貨車の乗り心地はとても体によろしくないそうだ。

 

そんな夜行列車、貨物列車に本当に乗ってしまった人間がいる。

もうずいぶん前、10年になろうかと思うので、わだらんのうろ覚えなのだが、鳥飼の大阪貨物ターミナルで貨車に乗り込んだ若者グループ、

吹田で降りればよかったのにそのまま乗り続けて、瀬田で併走する電車の運転士に見つかって、米原の国道8号を歩いていたところを

連絡を受けていた警察官に挙動不審で捕まった、とのこと。

当人たちは吹田を出ると全く停まらないので恐ろしくなって、米原(もちろん駅ではなく、操車場だが)停車で慌てて降りたらしい。

貨物の停車駅など一般人にわかろうはずはなく、簡単に乗っては見てもあとからえらい目に遭うに違いない。

なにより風が吹きさらしで、とても寒い、と思うのだが。

 

そんなバカみたいな話がまた先日あって、河瀬で貨物列車を停めて確認する間、草津米原で一時的に列車抑止になったそうな。

騒動に振り回されたみなさんにはなんとも迷惑な話に同情するものである。

結局乗務員が捜しても見つからなかったそうで、本当に乗っていたのかどうか不明だが、

当該列車は富士発広島行き列車のようで、岐阜から吹田まで停まらない。

河瀬で停まって慌ててどこかに隠れてしまったのだろうか?

まさか当人も岐阜から滋賀県まで突然連れてこられるとは思わなかっただろうに。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  当時一曲ヒットしてビルが建ったらしい

 

3/3

昨年末の紅白で、寺尾聡がルビーの指環を歌っていた。

見ていて、なかなか渋いおっさんでかっこいいな、と思った。

すると先日新聞に誰かが同じようにかっこいいぞなどと書いていて、ああ同じように考える人がいるものだ。

当時の流行歌で今でもさっと口ずさむことができるし。

といいつつ、実は今になって歌詞の内容を理解したのである。あ、なるほど、そうか、

未練がましい男なのか、と。一般的には好きだった人のことは女より男の方が引きずられやすいそうだから、そんなものかと思う。

まぁわだらんはまだそんなに好きだの別れただの気にする歳ではなかったから。

なにしろこの歌がはやったのは調べてみるともう27年も前、1981年の話である。

 

そんなことで気になって1981年7月の時刻表を出してくる。

まだまだ夜行列車が旅の主役だったころで、野洲もたくさんの列車が深夜に通過していく。

大阪発長野行きのちくまとか、名古屋発博多行き金星とか。

もちろん博多まで既に新幹線は開業していたので、九州夜行はずいぶん整理されていたが、それでもたくさんの列車が走っている。

数えてみると、東京からの九州特急が5本、山陽山陰へが4本、それに金星、きたぐに、ちくまと銀河。

ただ国鉄の赤字体質は既に深刻で、もうすっかり特急誘導の列車体系、九州への夜行急行は絶滅しているが。

といいつつ当時はブルトレブームの頃で、小学生たちが朝の大阪駅でカメラ片手に走り回っていた。

わだらんはこの頃はワイド周遊券で九州や北海道をぐるぐるしていて、その旅行術が今でも生きているのだが。

そんな時代、まだ普通電車は冷房車が少なく、当たればもうけもの、の時代であった。

ちなみに野洲5:56で大阪着7:07という727M野洲発姫路ゆきという普通電車があって、今の709Mとほぼ同じダイヤである。

今とあまり変わらない、といえばそれまでだが、今は当時より3駅余計に停まっているのだ。

 

今朝も713Mを駅で待っていると、ちょうど車庫から入線してくる221系電車の横を徹夜明けの銀河が通過していった。

A寝台もよく乗っているようで、ブラインドの上がった窓がぞろぞろと過ぎていく。

この時期、乗客のほとんどが鉄ヲタなのだろうけれども、27年前はどんな感じだったのだろうか?

当時のA寝台はいまよりずっと品位もあってなかなか手の届くものではなく、貧乏学生のわだらんにはとてつもなく高貴な存在に思えたものだ。

今の銀河のようにA寝台ですらほとんど埋まった状態だと、なかなか静寂で高貴な雰囲気はでないかもしれないだろう、と思う。

月曜日で前を走る貨物列車が運休だったのだろうか、めずらしく銀河はさっそうと駆けていき、713Mは野洲6:16の定時発車となった。

銀河を見届ける日々もあと2週間、追いかけるつもりはないが、会えるときには静かに見送ってやろう、と思う。

 

ちなみにこの1981年というと初めて福知山線に電車の走った年である。

大阪駅にドアの開きっぱなしだった旧型客車が当たり前にいた時代、そしてロス疑惑の年でもある。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  現代人には若さが足らない、という宣伝

 

3/2

大阪を中心とする関西人は「関西電気保安協会」をまともに読めないらしい。

全員が節をつけて読むそうな。

そういうわだらんも確かにまともに読めない。

(市外局番05で始まるみなさんは1週間遅れなのでネタがわからないです..)

で、ふと思ったのが、若狭の人はどうなのだろう、という疑問。

よく伊賀の国は関西だ、市外局番を07xxにしよう、などという話は聞くのだが、伊賀より若狭の方がもっと不思議である。

若狭は基本的に関西電力。当然関西電気保安協会は小浜にも出先を持っている。

もともと福井県は民放2局の今時珍しいところ、当然小浜でもケーブルテレビで毎日放送と朝日放送を中継している。

大阪からの高速道路は福知山舞鶴経由、鉄道なら湖西線近江今津経由が速い、

などと本来の北陸への足回りとは大きく異なる、不思議な地域。

冬の北陸キャンペーン協賛の北陸おでかけ切符も福井以北がエリア内で、若狭は全く無視された形。

同じ福井県といいながら、若狭ははずれものか?

 

北陸新幹線の南越以南の路線決定が進まない。

若狭を通せという案もわかるのだが、京都を無視するわけにも行かないだろう。

わだらん的には米原ルートが一番現実的と思ってはいるのだが、そうすると関西からの北陸ゆき新幹線が

JR東海区間に入ることになり、JR西日本としては面白くなかろう、と思う。

今の調子ではいつ北陸新幹線が全通するかはっきりしていないのだが、いずれにせよ当分ルートも決まることはないと思われる。

もちろん若狭の方々は新幹線で大阪直結を願っているのだろうけれども、そうするとますます若狭は関西になってしまうのだろうか。

何しろ若狭の井戸は奈良に通じているそうだから。

 

春の陽気となった日曜日、何か発見があるか、と線路に沿って散歩に出る。

用水はなんとなく水温む雰囲気で、畑の野菜が青々と元気にしている。

田園の中を走る電車もなんとなく気持ちよさそう。天気がいいと、電車の走る音まで軽快に聞こえるのはわだらんの思い込みか?

線路の向こうには真っ白な比良の山並み。

あの山の向こうは鯖街道、もっと進めば若狭か、とはるか琵琶湖の向こうの道のりを想像しながら歩くわだらんであった。

 

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