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わだらんの鉄道自由研究表紙へ
08年9月
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604. 9/29 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 隣に抜かれても楽しめる優雅な気分
603. 9/26 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 海を渡る、安全に快適に渡る
602. 9/24 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 郊外SCに負けず駅前で集客を
601. 9/22 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 銀色車体がいまどきの電車の象徴か
600. 9/18 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 新快速の走る線路は渋滞中
599. 9/17 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 立待月、居待月、寝待月、更待月
598. 9/15 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 子どもに釣られて親がお金を落とす
597. 9/13 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 昔、KIOSKおねえさんは職人芸と言われたものだが
596. 9/10 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 米原草津の複々線計画もあったそうな
595. 9/8 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 汽車は非日常、電車は日常
594. 9/5 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 電車の世代交代は地球温暖化防止の貢献
593. 9/3 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ ダイヤ乱れが日常茶飯事では困るのだが
592. 9/1 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 18きっぷ利用者の平均年齢はいくつなのだろう
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 隣に抜かれても楽しめる優雅な気分
9/29
日頃新快速に乗っていると、時速100kmで走る世界がそんなに驚くことでなくなってしまっている。
昔は運転台後ろや一部の電車の車内にあった速度計で100kmを越えると小躍りしたものだが、
最近は当たり前になってしまって小躍りすることがない。
いやむしろ小躍りするような歳でなくなったのかもしれないが。
それでも未だに自分の乗った電車が他の電車と競争する場面というのはなんとなくワクワクするものだ、と思う。
今日の帰りは大阪18:37の3504M。
15分パターンからはずれた時間の電車で、高槻と京都でそれぞれ普通電車と同時発車になる。
高槻では分岐器速度制限の関係でC電が先に行ってしまうので、あとから追いかけである。
こんなように隣の線路の電車に追いつき、しばらく併走したのち抜き去るのは面白いものだ。
その一方で京浜東北線と山手線、あるいは中野以西の中央線快速と総武中央線緩行のように複数の駅をまたいで競争するものも楽しいものだ。
抜かれる方は多少気分も悪いものだが、C電に乗っていて新快速に抜かれるのはしかたのない話。
むしろ山手線と京浜東北線のように電車の速度の変わらないもの同士で抜かれた方があまりうれしくないのかもしれない。
そういえば野洲への帰宅時、高槻を出た先で新幹線と併走することがある。
もちろんいくら新快速が時速130kmで走っていても新幹線に追いつくわけがないので、あら抜いていったわね、くらいの軽い気持ち。
これが阪急の通勤特急や快速急行だと長岡京の手前まで併走することになるので、自分の乗った新快速を応援してみたりする。
山崎の構内を抜けるところは100km/h制限で、ここを減速する間に阪急の電車に交わされることも時折あってちょっと残念だったり。
とはいえ、昔は超特急つばめに新京阪線の電車がわざと並んで競争したりもしたそうだが、
今はもともとの列車速度も上がり、周囲の建物も増えて、迫力ある競争というのは難しいのだろうなぁ。
もうすっかり日の暮れた7時過ぎ、長野からの383系しなのが4つ目ライトを輝かせてすれ違う。
意識したのかしないのか、4つ目のライトが名鉄7000系パノラマカーを想像させるに充分な姿。
と見ているとまたパノラマカーに乗りたくなってきた。
引退までにあと何回乗れるか、また近日出かけてみようかな。
乗るとすると岐阜と須ヶ口の間の普通電車運用のものになるようだ。
中学高校と岐阜市で過ごしたわだらんにとっては当時もそれ以降も何度となく乗った区間ではあるが、よく考えると普通電車に乗ったことがない。
今伊勢や石刀に停まったことがないのである。
パノラマの大きな窓から外を眺めながら、小さい駅に停まって進んで、隣を走る313系新快速にあっさり抜かれてみるのもまた楽しいだろう、
などともうすっかりまたパノラマカーに乗りに行く気分になっている。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 海を渡る、安全に快適に渡る
9/26
先日、卯之町まで出かけてきた。
松山−八幡浜間のキハ58に乗るのが目的だったのだが、そのために久しぶりに夜行の高速バスに乗った。
せっかく夜に明石海峡大橋を渡るルートなのに、三ノ宮駅前を出るときの記憶がなく、目が覚めると高速を一旦降りて徳島道へ上がり直す途中であった。
どこでも熟睡できるのはありがたいが、車窓の楽しみや、移動の感慨がないうちにどんどん進んでいくのはちょっともったいないとも思う。
まぁバスでいとも簡単に四国へ渡れるわけで、ずいぶん便利になったものだと思う。
昔は船に乗る路線バスがいくつもあった。
あるいは船着き場がバスの起点であったりする、そんな例も珍しいことではないものだ。
明石海峡大橋開通前の東京〜徳島の高速バスは明石岩屋のフェリーを利用していたし、熊本〜長崎のバスは有明海をフェリーで渡っていた。
バスの乗客からすれば、バス車内から船内へ散歩すればちょっとした気分転換でもあり、なかなか楽しいものではなかったかと思う。
橋をバスでそのまま渡るのは楽だけれども海を渡るという感慨はあまりないものだ。
でも橋ができればバスは橋を渡る、当たり前の話でいまや船に乗る定期バスは残っていないのでは、と思う。
中には鳥羽〜中部空港のように橋ができたのではなく、単に乗客がいないだけで廃止になったバス路線もあるけれども。
ドイツと北欧の間には列車をそのまま運ぶフェリーがある。
有名なのはハンブルグとコペンハーゲン間の渡り鳥ルートと呼ばれる区間にあるフェリーで、約1時間船に乗る。
しかも国境になっているので、フェリーの中は免税店や両替所など、なかなか華やかなものである。
コペンハーゲンと海を隔てた対岸のスウェーデンのマルメというところからはベルリンへ夜行寝台の列車がでていて、これもフェリーで約4時間、海を渡る。
二回乗ったことがあるのだが、夜行なので多くの人間はそのまま寝台で寝ているのであまり船内へ移動する客はいない。
ではあるが、列車が大きなフェリーの中に飲み込まれていく様子や、船の中に敷かれた線路など見ていると、わだらんはうろうろしたくなってしまう。
もっとも船を下りるときはいつも熟睡で全く知らないのだが。
日本ではかつていくつもあった鉄道連絡船が次々廃止になり、今や残るのは宮島航路のみ、
その宮島航路は鉄道車両の輸送を伴わず、かつ港も鉄道駅とわずかに離れていて、あまり連絡船のイメージではない。
やっぱり連絡船といえば、港が駅の横にあって、鉄道車両が船のなかにいるものでなければどうも感慨が湧かないような。
とはいっても、船に鉄道車両を積み込むのは面倒なことで、時間もかかるし、手間もかかる。
船で海を渡るという感慨はあくまで一部の旅行者のみの気持ちで多くの乗客はわざわざ船に鉄道車両を乗せることはやむを得ないものとしか思わないのだろう。
デンマークはかつて幹線にフェリー航送区間があったのだが、長い橋とトンネルで線路を繋いで、鉄道フェリーはお役ご免になってしまった。
しかたがないことだろうなぁ。
鉄道車両の航送は多くの人の手を要し、設備も大きい。
が、車両を航送することで積み替えなしに運ぶことのできる貨物など、列車航送は時代の要請にそった重要なものであったはずである。
車両積み込みの手間がもっと少なく、あるいは乗客の乗り換えがもっと楽であったら、
そもそも函館市内で今から54年前の今日、午後3時前に停電がなければ、多くの方が海に命を投げ出されることはなかったのかもしれない。
今のように超高層から台風を看視できていれば起こることのないはずの遭難事故の日。
真っ暗な夜、時化の海に突然投げ出された鉄道の乗客と、そして船を守り通すための最善の努力を続けたであろう鉄道職員の命に、合掌。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 郊外SCに負けず駅前で集客を
9/24
滋賀県の人間はどうも南彦根本社の某地方スーパーが気になるようである。
今や尼崎にも富山にも、はたまた小牧にも進出する地場の割には結構な勢力であったりする。
ポイントの付く某カードはおそらく滋賀県民はみな持っているのではなかろうか、と。
いや、別にわだらんがそのスーパーに対して何ら利害関係はないのだが、
それでも野洲の店には週一回は出かけるし、家の近所には少し車で走ればいやほど店がある。
守山も栗東も草津も駅前に店があり、栗東や草津に至っては駅の両側に店がある。
ただでさえ個性の乏しい橋上駅だらけの滋賀県内で、駅前に某スーパーがある、と決まり切ったパターンが延々と続くのは、
やはりよそ者からみると不思議に思うのだろう。
もっとも、この鳩マークのおかげで安心したりもするもので、わだらんが旅行から戻る際、
日本海沿いに北から下りてきたときには某スーパーの鳩マークを見ては帰ってきたな、と思ったものである。
ちなみにもう20年も前の話、まだ小杉にも加賀温泉にも店はなく、春江が一番北だった。
田んぼの中にどんと鎮座した鳩の姿はたいそう目立ったものである。
そう、別にそのスーパーの宣伝をするつもりではないのだが、某巨大掲示板の湖西草津線スレには定期的にこのスーパーの話題が上がってくる。
わざわざ店の遠い逢坂山トンネルの向こう側住人の心配をしたり、
あるいは本線スレなどでは滋賀の象徴として湖と駅の間に某スーパーがあるAAまであったりして、
みんな結構よく観察しているものだ、と感心してみたりする。
まぁわだらんもその某カードのおかげで、東舞鶴の乗換待ち時間の間に某スーパーでお菓子の買い出しなどするわけで、結構よく利用していたりする。
しかし、この彦根の某スーパー、いまや岸辺・高槻・長岡京とまぁ目につくようになった。
わざわざ行くことはないと思うが、はやっているのかどうか少し気になったりもする。
守山の犬王国跡地に先日ショッピングセンターが開店したが、それに続いて近江大橋東詰にも大きなSCができる。
いつの間にか車窓から建物を確認できるようになったのだが、でもなんとなくそういう新規開店組を見ていると、
某彦根の地場スーパーを応援してしまうもので。
やはり駅に近いところに店があるのがなんともうれしいのである。
野洲も駅前とは言い難いがそれでも線路からほど近く、駅ホームからも店舗建物が見えている。
車窓からももちろんよく見えるわけで、野洲川を渡りきったところから野洲の店が見えるのがやはり毎日ほっとしたりする。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 銀色車体がいまどきの電車の象徴か
9/22
もうずいぶん昔、1949年のことである。
東京に突然お化け電車なるものが現れた。
もちろん電車がお化けであるわけでなく、お化けが乗っているわけではない。
電車の前後左右の塗装が違っている電車で、見るところによって色が違うというそれこそお化けな電車であったそうな。
もちろん人を驚かすのが目的でなく、どんな色が似合うか実際に試し塗りした、試験塗装車である。
今ならパソコンで図面に簡単に誰でも色塗りができる時代である。
写真を塗り替えて遊ぶ、なんぞは昔なら考えられなかっただろう、と思う。
そもそも昔の日本の鉄道車両は茶色がほとんどで、一部に深緑とか紺とかがあった程度である。
特に客車の場合機関車から出る煤煙で汚れやすいなどとずっと茶色であった。
機関車も黒と決まっていたようで、欧州にあった赤や緑、水色の機関車というのは日本では見られなかったものだ。
そんな時代であった故、明るい塗装の電車は近代的な鉄道車両の象徴だったのだろう。
中央線にオレンジ色の電車が登場したときは世間で大騒ぎになったそうだ。
その後黄色に黄緑、そして水色の電車が次々と現れ、
当時開設されたばかりの豊田電車区に銀色も含めた5色の電車が青空の下並んだ姿を収めた写真があったことを覚えている。
まだ幼いわだらんの頃であるがそれだけ印象深かったのだろう、と今になっても思う。
そんなことを思い出したのは、吹田工場にいる電車がおかしな色になっていたからである。
金曜日の帰宅時に緑に塗られた電車を見つけて一瞬目を疑った。
223系に置き換えられ吹田工場へ送られた福知山の113系、いわゆるサンパチであった。
ちなみに二両一組のもう一両はクリームに茶色、これまた不思議な色である。
金曜日は一瞬のことでよくわからなかったのだが、今日月曜日朝再び見ることができ、目を疑うことなくでもやっぱりびっくりである。
今時色見本に実物の電車を使うことはないだろうから、きっと塗装の練習などに使われたのだろうが、またなんとも派手なものであった。
寿命つきる間の最後のご奉公なのだろうか。
今や電車の塗装は厄介者扱いされる時代になった。
ステンレス車体全盛の今日、一般人には車体に巻かれた帯の色だけがかろうじて車両の色、車体識別の唯一の手がかりである。
ステンレス車体を塗装しろなどとは言わないが、車両工場への塗装ライン設置が面倒だからと、
赤い車体をやめてステンレス車体を入れる鉄道会社も現れる時代、小さな子供には電車の識別も難しかろうなぁ、
などと思いながらと緑に塗られた老兵113系が元気だった、青とクリームのスカ色で颯爽と長編成を組んでいた頃を懐かしんでみたりする。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 新快速の走る線路は渋滞中
9/18
週半ば、木曜日。
木曜日は朝の電車も比較的空いていて、少し寝坊して野洲6:42の3405Mの客となる。
貨物列車が少し前を通過して、びわこエクスプレスがわずかに遅れ、717Mもわずかに遅れている。
とはいえ、2分程度の遅れなら草津停車中に充分戻るもので、何も心配は要らない。
そして同じく少し遅れ目にやってきた3405Mで、前向き座席をちゃんと確保。
月曜日は座席に余裕のない場合もあるが、水曜木曜は総じて月曜より空いていて、座席の確保が問題ないどころか、通路側ではあるが前向き座席を取ることも時折できる。
少なくとも月曜日に3405Mで座席が取れるのはほとんどが後ろ向きばかりである。
さて、そんな3405Mは快調に走る。
本来717Mと石山同着になるのだが、今日は717Mがわずかに遅れて石山で接続を取る。
が、実はこの717Mとはいつも京都を過ぎ、向日町あたりまでずっと併走するのである。
大阪着で3405Mが6分早いが、考えようによってはわずか6分、ともとれる。
まぁ朝は1分でもおおごとで、ちょっとでも早い電車に乗るのは人の心理。
石山で南草津や瀬田からの客であろう通勤者が次々と3405Mに乗ってくる、いつもながらの光景である。
わだらんもいつものように睡魔におそわれ、夢の中。
山科で窓側に移ることができ、内側線を走る717Mを真横に見ながらふたたびうとうとである。
ところが、がくんという振動で目が覚めた。
向日町と長岡京の間、運転所の横のあたりである。
車掌氏の話では「前を走る特急が車両故障を起こして」という。
しばらく動かず、一閉塞動いてまた停車。
どうしたものかと思う真横を快速が抜き去っていく。
あれ、717Mは問題なしかいなと抜きさる姿を見てびっくり、運用番号からすると721Mではないか。
この時点で乗っている3405Mは既に15分程度遅れている。
しかもそのあとのろのろ、長岡京の手前でC電に抜かれ、山崎手前で723Mにまで抜かれる始末。
7号車にいるわだらんには最後尾の様子はうかがいしれないのだが、島本を過ぎて車掌氏が
「新快速の走る線路で電車の間隔が詰まって徐行しています。新大阪大阪へは高槻で快速普通電車に乗り換えると早く着きます」という。
でも高槻からは快速電車は外側線のはず、しかもT電がどんどん走っていくということは、
高槻以降の外側線は問題ないということではないか、とまず不信感。
おまけに携帯でJRの運行情報を見ると、故障したのは前を走る特急ではなく、「きたぐに」であるとのこと。
それならもっと早く、せめて長岡京で客扱いでもできるだろうに、とさらに気分が悪くなる。
そもそも「きたぐに」の故障ならば、この3405Mが京都に着いた時点で外側線の渋滞はわかっていたことで、その時点で内側に振るなりできなかったのか。
少なくとも内側は高槻まではほぼ定刻で各列車が走っていたわけで、外側の電車がとろとろしている間に内側はどんどん流れているのである。
長岡京で転線していれば、もう少し状況も変わっていただろうに、と思う。
結局わだらんの推測した通り、高槻8番線には583系が停車中である。
故障を引きずってここまで持ってきたのだろう。そして高槻を40分ほど遅れて発車し、その後は前の快速にあたったのであろう茨木手前で徐行したものの、
これまたわだらんの推測通りほぼ順調に走り大阪へは45分遅れ、ほぼ定刻の527Cと併走での入線であった。
それにしても驚いたのは車内の静かなことである。
さすがに遅れが30分を越えた時点、長岡京のあたりであちこちから携帯電話での会話声、ほとんどが「遅れます」内容の
電話であるが、が漏れ聞こえてくるくらいで、誰が大声を張り上げるわけでもなく、みな静かに乗っている。
遅れに慣れっこになってしまったのか、あきらめの境地なのか、車内が静かなのはまだ幸いであった。
しかし気分が悪いのはまともに列車を走らせることのできない運転指令とまともに乗客への情報伝達のできない旅客指令である。
素人でもまだもう少しまともな捌きができると思ってみるのは自意識過剰か?
でもこの状況ならそう思えてもしかたがない。
しかしかわいそうなのは石山で717Mからわざわざ乗り換えたお客、そして車掌氏の的確でない案内のもと、高槻で普通電車に乗り換えた客である。
結局高槻で向かいにいたC電と同時に大阪に着いたのである。
高槻でずいぶんと空いた車内にいた方が同じ立っているのでもずいぶん楽なはずである。
そしてわだらんももし野洲で717Mに乗っていれば、座ったまま何のストレスも感じず40分前には大阪駅へ着いていたはずである。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 立待月、居待月、寝待月、更待月
9/17
中秋の名月とはよく言ったもので、確かにこの季節、空気が澄んできたころのお月様はとてもきれいに見える。
ウサギが住んでいるかどうかわだらんはよく知らないが、昔の人が月へ旅行したいと思う気持ちはよくわかる。
月の出まもなく、水平線に近い赤い大きな月を見ていると、なんとなく秋がきたな、と思う。
そんな季節の移ろいか、いつの間にか日没がずいぶん早くなって、ちょっと頑張って大阪17:45の3498Mに乗っても、野洲に着く頃にはもう真っ暗である。
というか、高槻あたりで座って石山で目が覚めるともう真っ暗、寝ている間に夕方を通り越して一気に夜になってしまう。
そのうち大阪を乗る頃にももうまわりが見えなくなる季節かと思うと何か損をしたように思う。
特に昼の長いオランダあたりの旅行経験からすると、17時で暗くなってしまうのはとても残念である。
とはいえ、夜が早くなったからこそ中秋の名月であって、同じ満月でも夏の暑い夜はさまにならない。
昔の日本人は季節に敏感だったのだろう。
月の動きを窓から追いかけながら、という楽しみは逆に秋以降でしかできないし、まぁ夜が早いのもまたそれとして楽しまなければ、と思う。
月光といえば、世界で初めての寝台電車につけられた名誉ある名前である。
他にもあかつきだのムーンライトだのと月の名前を語る列車名は多いが、でももうほとんどが鬼籍になってしまった。
そもそも昔の夜行列車はそれとわかるような明星だの彗星だの天の川だのと月や星などを名乗るものが多かった。
今走っている残り少ない夜行列車はむしろ夕暮れや朝の情景から来る名前ばかりで少し寂しい気がする。
もう少し夜の風情を感じられる名前はないかと思うが、そもそも夜行列車自体が風前の灯火の中、名前に贅沢は言っていられないのだろう。
野洲駅から自宅への道すがら、暗くなった中をどこからともなく虫の音が聞こえてくる。
雲に隠れてしまった満月が見られないのは残念だが、せめて団子でも食べて秋の夜長を楽しむとするか。
せめてあと一回わだらんが九州へ夜行寝台でおでかけできますように、そしてもう一度オロネ24で東北へ行けるよう、
夜行列車に命長らえてもらえるよう、満月を越してしまって雲に隠れたお月様にお願いしてみる。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 子どもに釣られて親がお金を落とす
9/15
日頃大阪駅の上り方で電車に乗る機会の多いわだらんは、エレベータの乗り降りをよく見ている。
朝の下り電車ではエスカレータに脇目もふらず一目散にエレベータに走っていく通勤客が実に多い
(たまにわだらんもその中にいたりする)のだが、やはりエレベータの主役は車椅子の方だろう。
だろう、というのは全日ずっと見ているわけでないのでそう推測するのだが、
少なくとも夕方のエレベータ主役はベビーカー。
どこから沸いてくるのかと思うくらいベビーカーが次々でてくる。
そんなに混んでいるとも思えない丹波路快速から3つや5つのベビーカーが出てくるのはちょっと不思議にすら思える。
もちろん階段やエスカレータではベビーカー利用ができないので、
エレベータにベビーカーが集中するのは当たり前なのだが、それでもずいぶん増えたなぁ、と思う。
移動にやっかいなベビーカーとさらにやっかいな幼児を連れての電車移動、
若いお母様がたにはたいそう面倒くさいのではないかと。
でもそうやって電車に乗ってくれるのは大事にすべきであろうと思う。
本来ベビーカーも大切な乗客の一人のはずなのだが、鉄道会社の扱いがどうも車椅子に較べて
ベビーカーの扱いがぞんざいに思えるのはわだらんの色眼鏡か。
とある関西の大私鉄の車内にはさもベビーカーが迷惑だといわんばかりのお知らせが。
これが某歌劇を持つグループ会社かと思うと、どうも違和感がある。
とはいえ、昔ならベビーカーは折り畳んで乗車するものであった。
今のように開いて子どもを乗せたまま電車に乗せるのが当たり前になったのはいつごろだろう?
おそらくはエレベータの駅への普及が契機なのだろうけれども、むしろベビーカーで電車に乗る、
つまりおでかけするのが当たり前になってきたから、なのかもしれない。
敬老の日で三連休になった月曜日、午前の下りの新快速はずいぶんと混んでいて、
野洲の時点で先頭車は座席が既に埋まっていた。
先頭の補助椅子にはベビーカーを手で捕まえているおかあさん。
おとうさんはお兄ちゃんであろう小さな子どもを抱いて前を向いて立っている。
幼稚園児くらいだろうか、前から来る電車を見て、「かもつ」とか「223系」などと大きな声を張り上げている。
鉄ヲタ予備軍だろうが、でもそうやって乗客確保に役立つよう、もっとベビーカーや
ちいさな子どもを大事にする余裕が鉄道会社にあってもいいと思うのだが。
ちなみに小さな坊やが「223系」と叫んだ野洲行き電車の先頭は実は223系特殊車で、
後ろに221系が繋がっているたりするのだが、そんなヲタ的なことをまだ子どもは知らない。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 昔、KIOSKおねえさんは職人芸と言われたものだが
9/13
岡山駅がリニューアルでずいぶん様変わりしてしまった。
配線整理でホームがコンパクトになった話はいろいろとネットで知っていたのだが、いつの間にか駅自体が橋上駅になっていて、
まるで京都駅のようにホームから階段を登ると中央改札、そしてその先には店舗、とまぁなんともびっくりである。
おまけにわだらんが乗換に使った時間帯が特別なのか、とにかく人が多かった。
通路に人があふれているのは岡山に限ったことではないが、
大きな鞄を持った旅行客が大量にいる状態は通勤時間帯の大阪駅の様相とは少々違う。
そういえば東京駅の丸の内側、東海道新幹線乗換改札前も常に人がいる印象だったが、最近はどうなのだろう?
土曜の朝、京都駅へ行ってきた。
いや、正確には大阪への行きがけに途中下車した、というのが正確な言い方であるが、中央改札前にできた新店舗をうろうろと。
喫茶店は朝の880円コースで、飲み物以外に食べ物とり放題なら悪くないかな、スーパーは結構お弁当類が豊富だな、といろいろ見て回る。
特にスーパーのお酒コーナーは種類豊富で、つまみ類もレトルトの焼き鶏とか乾きものもいろいろ揃っていて、
あれは夕方以降の新幹線客を狙っているのかな、と思えるものが所狭しと並んでいる。
お弁当類ももともとある駅弁と違った種類で、コンビニよりは少し豪華?
よく18きっぷのおばちゃん連中が車内で広げるのみ最適なものに見える。
最近は世間なんでも集約化と大型化が進んでいるようで、街の本屋やガソリンスタンドなどもどんどんそんな傾向にあるようだ。
その意味では駅の売店類もそのたぐいで、小さな売店類はどんどん閉鎖になっている。
人手不足とかいろいろ外部要因もあるだろうが、ちょっとした買い物も駅構内のコンビニで買わねばならない、という面倒くささはある。
駅のお弁当類も、ホームでの購入が難しくなっていくのだろう。
そういえば新大阪の在来線ホーム売店ではお弁当を扱っていたのだろうか?
などと考えていると、そういえば山科にまだホーム売店があったことに気がついた。
いまや米原−大阪間で新幹線停車駅以外で唯一ホームにKIOSKのある駅になってしまった。
近いうちに缶ビールとピーナツでも買ってみようか。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 米原草津の複々線計画もあったそうな
9/10
あってはならぬことであるが、単線区間では時折正面衝突事故が起きる。
事故が起きるたびにいろいろと設備改良が行われ、どんどんと事故が起きる確率は少なくなってきているのだが、
それでも最後に人間がミスをすればダメだ、という事態も時として起こってしまう。
残念なことだ。
まぁ、とにかく鉄道の保安設備は事故とと共に研究整備されたのであって、事故を後生に起こさないことが事故の教訓なのだろう。
少なくとも安全側線や直下ATSなど、単線での正面衝突が起きなければ生まれていなかったのではなかろうかと思う。
ただ、やっかいなことは単線であればどこでも正面衝突が起きる可能性はある。
不幸にも近鉄大阪線で特急同士の正面衝突によって30名が亡くなられた事故では単線区間での過密ダイヤも事故の遠因
(直接の原因はブレーキ弛緩方法の手順間違いであるが)ともされ、のち同区間の複線化工事が完成している。
このとき、わだらんの記憶では確か名阪2、阪伊2本の特急に急行1、普通1の計6本が1時間あたり走っていたので、
単線としては相当過密であった。
こんなことを考えたのは、先日宇野線に乗っていたからである。
宇野線も岡山−茶屋町間が単線で、特急2、快速2、普通1に加えて貨物など走る高密度路線である。
ただ単線区間が比較的短い上に、改良工事がいろいろ加えられた長い有効長を持つ駅が続いたりとあまり悲壮感のある単線区間ではない。
とはいえ、一旦ダイヤが乱れると回復は容易でないだろうし、四国側は多度津以遠が長い長い単線区間、
上りは新幹線を待たせられないし、さぞ列車扱いがたいへんなところなのだろうと思う。
早島の南側では複線化工事が佳境に入っているのを見たが、事故は起こらないにせよ、
いろいろとややこしい単線区間が短くなることはうれしいことだ。
本来線路はたくさんあればあるほど有効利用できるはずで、あまり「もったいない」というレベルではないように思う。
今でこそ配線スリム化で駅構内などはずいぶん線路が減っているものの、戦時中のように複線を単線にするという話は聞かない。
せっかくあるものは大事に使えばいいでないか、と思う。
よくまだ世の中をあまり知らない連中が草津京都間の複々線は無駄だ、などと言っている。
でもその複々線のおかげで貨物列車が上手に各駅停車のT電を抜いていったりできるのだがなぁ、ともう30年にもなった複々線上で、
草津線5372Mの113系と併走する新快速車中のわだらんはぶつぶついつものように独り言。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 汽車は非日常、電車は日常
9/8
小学校や中学校の学校名が路線バスの停留所名になっているものは多く、
わだらんが通っていた中学校も高校も名前の付いたバス停がある。
もともと公共機関がバス停名になることは多く、地域の目標物になっているものだ。
高校になれば、地域の目標物だけでなく、実際の高校生の足になるわけで、
小学校や中学校名のバス停とは少々意味合いが違うのかもしれない。
大学になるともっと通学方法としてのバス停や、さらには鉄道の駅も珍しくないわけで、
阪急の関大前などはまさに大学の名前そのものである。
最近は私立の学校法人が生徒を集める手段として駅名を意識的に変えたりする例があったり、
駅を新たに造るものも珍しくない。
学研都市線の同志社前などはまさに大学と一緒にできた駅であるが、
最近は特に交通が不便なところには学生も集まらないという学校側の焦りというか、戦略も見て取れるような。
少子化の中、快適な通学というのも父兄や学生から見て学校選びの選択肢のひとつなのだろう、と思う。
そんなことを考えたのは岡山の一つ東より、西川原・就実駅を見たからである。
この春の開業後、はじめてわだらんが山陽線の電車に乗っていて停まったのだが、まぁ全体に簡素である。
学校が駅設置費用を出したもので、必要以外には金をかけないというか、
ホームは狭く、ホームへは長い階段(スロープ?)を登らねばならない。
とはいえ、今まで目の前で電車が通るだけであったところに駅ができて電車を利用できるというのは便利な話で、
学生確保にはいい話なのだろう。
というか、それを見越して駅設置費用を出すわけだから、みなが丸く収まる話であろう。
(もっとも他の学校法人にとっていい話ではないのかもしれないが)。
しかし、そんな新駅が開業し、地方での鉄道もどんどん都市化していく。
昔は長い客車群を機関車が牽いていて、各駅停車とはいえ、
それなりに長い駅間距離が必要であったのだが、最近はどんどん駅間が短くなっている。
岡山でも2両編成の電車が山陽線の本線上を走る姿は珍しくなく、まさに電車、汽車とは違う身近な乗り物である。
これではなかなか旅に出た風情もないな、と思う。
日曜日、18きっぷの消化もかねて高松でうどんを食べてきた。
うどん屋を梯子するのは実に楽しいのだが、ふと帰りのマリンライナーで、そういえばいつもの電車だなぁ、
と思って何気なしに車番をみて納得、乗った車はもともと網干にいて本線快速に使われている編成から抜かれた車であった。
夕暮れ時、明るい海面を見ながら渡る瀬戸大橋ではあるが、いつもの電車と同じではますます風情に事欠く、
とひとりぶつぶつ文句をいうわだらんであった。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 電車の世代交代は地球温暖化防止の貢献
9/5
わだらんがいわば人生をともにしてきたような高運転台顔がいよいよ姿を消す、そんな悲しい時代になってしまったようだ。
正面に貫通路を持ち、おでこに表示窓、高い位置の窓に目玉ライトが左右ふたつ、いままで当たり前に見てきた顔である。
生まれは1958年登場のクハ153が1960年に高運転台にデザイン変更され、
その後113系や455系なども同じ顔つきで全国津々浦々に広まったもので、北は旭川から南は鹿児島まで、
秋田や愛媛などごく一部を除くほぼ全ての電化路線になじみのある顔になった。
実際に聞いた話ではないのだが、当時の国鉄車両技術のトップであった故島秀男さんが、
鼻筋の通った線対称のデザインを好まれていたそうで、クハ86の湘南顔やEF58の二枚窓がその系統なのだそうだ。
その点この高運転台は正面に貫通路があって鼻筋が通っているわけではないのだが、
でも貫通路が折り曲げの中心位置にある、線対称のかたちをとっている。
均等な機器配置のわかりやすい顔で、国鉄電車の顔といって間違いない、と思う。
電車の世代も省エネで一層交代劇が進みそうである。
今の電車は軽く、しかも必要な分しか電気を喰わない。
昔の電車(といってももちろん現役多数だが)はとりあえず電気を喰って、必要でない部分は熱として放出していたわけで、
今の電車と比べれば、どうしても無駄な部分が多い。
チーム6%からすればこの在来型抵抗制御の車をなくすだけでも結構な貢献になるのだろう、と思う。
とはいえ、それらの電車がわだらんの人生とともにあったのも事実で、これらの車が取り替えられていくのはなんとなくさびしいものだ。
時代の流れ、時代の要請ではあろうが、せめて元気な姿を最期まで見てやりたいものだ、と思う。
朝713Mでいつものように大阪駅に着くと、新三田行きの563M、113系の姿を見ることができる。
いつもいるのが当たり前のような113系が今や時間を合わさないと大阪駅で見ることができない時代、
特に時間を選ぶわけでもないのに、毎日元気な姿を見ることができるのはありがたいことだ、と思う。
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ところで、先日福知山線の事故のことを書いたところ、新三田の事故は1994年8月3日、福知山の事故は1991年6月25日とご教示をいただいた。
ありがたいことです。
今でこそずいぶん少なくなりましたが、昔は踏切で車と喧嘩する電車が結構いたものです。
高運転台になった理由も、踏切事故での損傷、特に乗務員の安全確保が目的で、その意味でもあの電車顔は時代の要請だったと言えそうです。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ ダイヤ乱れが日常茶飯事では困るのだが
9/3
帰宅してメールボックスを開けると、見知らぬ方からのお便りが来ていた。
わだらんのHPを見て、質問をいただいたのだ。
もともと自己満足の集大成であるようなわだらんのHPではあるが、何かの感想なりをいただくのはうれしいことだ。
ところが、そのお便りの内容に驚いた。
わだらんのHPに事故の記録をまとめたところがあり、
その中の膳所駅貨物列車脱線事故の話についてコメントをいただいたのだが、その事故現場を通勤途中に目撃されていた、という方である。
膳所駅のこの事故は昭和43年6月の話である。
わだらんは一応生まれていたが、まだ詳しいことをわかるまでには至っていなかったのだが、それを通勤途中に見ておられたとは恐れ入る。
若く見ても1953年生まれ、つまり最低でも55歳以上の方で、そのような先輩からコメントをいただくのは少々恐縮である。
しかもそのコメントが、その事故についての確認依頼で、これまたわだらんにとって
なんとも難しい宿題をいただいてしまった、とまた恐縮したり萎縮したりである。
しかし事故はあってはならぬことではあるが、やはり事故の記録は何かしら残しておくべきだろうと思う。
例えば福知山線では過去に新三田と福知山で脱線事故が起きているのだが、
尼崎の脱線事故ばかりが福知山線事故で有名になってしまい、新三田も福知山も事故の記録がWEBで見つけられない。
新三田ではクハ103が、福知山ではクハ111が転んでいる、そのことのだけはわだらんが記憶の隅にあるのだが、それ以上のことが思い出せない。
大阪駅9番ホームへいつものように上がる。
17:45の3498Mを狙ってであったが、何気なく案内板をみると12両の表示になっている。
須磨で線路にトラックがぶつかったとかで、ダイヤが乱れているそうな。
最近そんな橋桁を引っかける線路支障が増えているような気がする。
もちろん駅員や保線区員が手薄になって現場確認に時間がかかるようになったのが、
感覚的に電車が遅れる原因になっているのだろうけれども、線路にぶつかる事故自体も増えているような気がする。
そういえば少し前に阪和線で線路支障した直後に普通電車が通りかかって脱線した事故があったのだが、あれはいつだったっけ?
今朝3日は大阪環状線でも線路支障があって運転見合わせがあったそうだ。
一日二回もトラックがぶつかるような日もさすがに珍しいのではなかろうか、と思う。
まぁ、そんなトラックのおかげで楽々着席の3498M、どうせ30分前の3494M遅れだろうと思っていたのだが、
野洲でもう一回よく運番をみると、乗ってきた電車は本来大阪駅16:30の3488Mで運転されるはずの車両であった。
姫路の折り返しも、そして西明石兵庫間の電車線運転も遅れの原因であったのだろうが、
まぁ世間的には17:45が時間通りにやってきて、しかも長い12両でよかったよかった、ということにしておこう。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 18きっぷ利用者の平均年齢はいくつなのだろう
9/1
大阪18:00ちょうどの3500Mに乗って帰宅。
よく利用する電車でおおよそ状況は把握できている、要するに座りにくい電車である。
通勤客の帰宅ピークには若干まだ早いが、ホームには勤め人が多数並ぶ。
中にはおねえさんの姿も多く、姿からすると何か外回りかな、と思わせるような方も。
そういえば学生らしき姿はあまり見かけないような気がする。
一方、到着する電車の車内には学生らしき姿が多数。
大阪で多数降りるので、この空き座席を狙うのだが、車内で大阪を越す客も多く、まず車内滞留客で座席が埋まる。
列で待ってみたところで座りにくい電車なのである。
通勤客はそのあたり十分承知で、とにかく通路へと入っていく。
先頭の人間が通路に入ってくれれば後ろも続きやすいのだが、先頭に通勤客、いや常連客がいないとドア付近で進まない。
血相を変えて押し飛ばすのもかっこのいい話でなく、要するに大阪で座ることを考えてはいけない、ということなのである。
しかし、今日はまたそれに輪をかけた状態である。
先頭が常連客らしく、手早く車内に入る。
わだらんの前に並んでいたご婦人二人は近江八幡までの回数券を持っていたのだが、これまたすっと車内に入る。
わだらんも続いて、と入って驚く。
ざっとみると10人?座席を向かい合わせにして、網棚にリュックを載せた中年?壮年?客が座席を占領している。
どう見ても姫路から座ってきたのでは?と思うようなくつろぎぶり。
もちろんわだらんの前に車内に入った客も座れるはずなく、その団体客の横に立っている。
わだらんもとりあえず車内に入り、その団体客でない座席の横に立つ。
すぐに車内が埋まってよく観察できなかったのだが、向かい合わせ2つ+その他ぱらぱらと同行客がおり、12、3人くらいはいそうな雰囲気である。
もともと先頭車の先頭位置の座席は総数20席で、そこをそれだけ占領されるとほとんど他の客が座れない。
しかも漏れ聞こえる会話からすると、この先東海エリアまで進むようだ。
名古屋あたりに帰るのか、あるいはこれから出かけるのか、その様子までは聞き取れないが、
要するに米原までこの状態だろう、ということのようだ。
まさに幸運で、わだらんが立っていた座席にいた中年男性が突然高槻で降りる。
ホーム入線まで降りる気配がなく、わだらんも座れるとは予想していなかったのだが、なんともありがたい話である。
運をこんなことで使っていいのか疑問であるが、それでもありがたく座らせていただき、野洲まで快適に帰宅である。
野洲に着いても大阪駅で見かけた近江八幡へのご婦人はまだ立っている。
そんなことを知ってか知らずか、団体客はみんなそろっておやつタイムであった。
おっさんたちがスナック菓子を食べている姿は、学生の貧乏旅行とあまり違いがないような。
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このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |