このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
雑記帳表紙へ
メルマガの登録、解除はこちらから
わだらんの鉄道自由研究表紙へ
09年 3月
*********
683. 3/31 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ ああ春休み
682. 3/29 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 朝は乗る電車が決まっても、帰りはなかなか一定しない
681. 3/26 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 風が吹くと桶屋は儲かる、ダイヤの乱れに巻き込まれない
680. 3/23 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 「先行列車の遅れ」は遅れの理由なのか
679. 3/22 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 甲賀ものと伊賀もの、違いがいろいろあるらしい
678. 3/18 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 電車が見えるのと接近を知るのは別物か
677. 3/16 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ おくりびとは英語でDeparture
676. 3/15 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 野洲深夜0時のお楽しみ
675. 3/11 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 24年間の隠遁生活
674. 3/9 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 輸送力をまじめに考えてみる
673. 3/6 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 払った以上はそれ以上食べる、乗る
672. 3/5 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 客がいれば走る、いなければ走らない自由
671. 3/2 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 新幹線はいつまで"新"か
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ ああ春休み
3/31
一日にある車両がどの時間にどこを走っているのかが気になるのが運用ヲタの悪い癖であるが、
おかげでやってくる電車がその前にどうしていたかがわかっている。
夜の大阪始発野洲行きの新快速はずっとお昼寝しているし、一方17:30の敦賀行き前4両は午前中にも敦賀に一回出かけている。
電車に表情があるわけではないが、でも何となく元気だったり疲れ気味であったり、と考えてみるのは楽しい。
月曜日で適当に仕事も片づき、大阪駅18:00の3500Mに乗ろうと改札を抜ける。
幸いにもまだ列は長くなく、前から3人目、3500Mは座るには難しい電車で、どうせ座れないなら窓からの眺め、
のんびり咲き始めた桜でも見ていこう、と思っていた。
ところで、この3500M、前後の新快速と少し異なる。
というのはこの列車だけ、姫路で直接10分ほどの折り返しで大阪・長浜に向かうのだ。
例えば一本前の3498Mはのんびり30分播州赤穂で折り返し時間があるし、次の3502Mは姫路で一旦留置線に引き上げる。
さらには大阪始発や網干発などが続いて、比較的ゆったりした折り返しである。
その中、3500Mは姫路のホームで直接折り返し、車内がばたばたするのは仕方ないかと思う。
そんな3500Mが定刻でやってきて、大阪下車客が大量に車内から吐き出されてくる。
ところが車内にはまだ滞留客多く、座席はほとんど空いていない。
これでは先頭に並んでも意味がない、などと思っているとなんとわだらんが立った横の座席にいた
小学生と母親(だろう、たぶん)がごそごそ立って降りていった。
どうも下車準備に手間取った上に乗車客の列におののいたのか、そのまま座っていたようだ。
母と子のおかげでわだらんは大阪から無事に着席できたので感謝しなければ。
とはいえ、もし以前の停車時間の短いダイヤだったら、あの親子は大阪駅で降りられなかったのではなかろうか、などと心配してみる。
まぁそんな子連れが目立つのが春休み。
将来の電車好き、旅行好きになってくれればうれしいが、でもそんな親子連れのおかげなのか、困ったことに座席が反対、後ろ向きなのである。
通路を挟んだ反対側も家族連れが座席列の中間で向かい合わせにして座っている。
おそらく姫路でとりあえず空いている座席に座ったのだろう。
これが長浜や播州赤穂のような折り返しに時間があり、かつ乗客が少なければみんな座席を転換してから座るのだろうけれども。
結局前後の座席は高槻京都と一旦空くことはなく、わだらんは後ろ向き窓側でそのまま野洲までやってきた。
後ろ向きは向かい合わせの席、と体が慣れているので、みんな揃って後ろ向きというのはどうも体になじまない。
京都で乗ってきた中年男性も若いおねえさんも幾分違和感を持っているのか、少し間をおいて座ったようだ。
もちろん通路の向こうでは4人家族の空いた席がそのまま向かい合わせで埋まっている。
車庫や引き上げ線から出てくる電車ならこんな後ろ向きでの乗車はないし、この3500Mにしても
いつもならたいてい前向きで座っているか、大阪駅で向きを変えることができる。
慣れない乗客、多客となればしかたなかろうが、そんなところに春休みを実感したりする。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 朝は乗る電車が決まっても、帰りはなかなか一定しない
3/29
わだらんが属する「運用ヲタ」という部類の人間はとかくおかしな行動を取る鉄ヲタの中でも特に行動がおかしいものである。
何しろホームの端でほとんど動かず、単に電車を見ているだけ、時刻表なりメモ帳なりを持ちながらずっとうろうろしているものである。
なんで同じ電車を見ていて飽きないのかと聞かれるが、運用ヲタなるものは今目の前にいる電車がいつ戻ってくるのか、
それを考えるのが楽しみなのであって、変わった電車が来たりすることを期待しているわけでない。
むしろダイヤの乱れは運用の乱れに直結するわけで、ダイヤ通りに毎日決められた時間に同じ編成長さの電車が来てもらわないと困るものだ。
そんな運用ヲタを続けていると、おおよその電車の運用というのが見えてくる。
乗務員は同じ電車に複数まとめて乗せることができるが、車両の運用はそういうわけにはいかない。
一般的に米原−網干間のホーム有効長は12両で、それ以上つなげると客扱いできない駅もでてくる。
つまり3編成以上をつなげて走ることはないのだ。
しかもいった電車は必ず帰ってくる。
それがどの電車で行けばどの電車で帰ってくるか、
時刻表とにらめっこしているとおおよそ電車の運用が見えてくる、もちろんそれは運用ヲタであるからこその勘であるが。
深夜にやたら長い編成の上りが多いのは無駄なようでも、でも電車を米原に置いていないと翌朝下りの電車が足らなくなるわけで、
そのために長い編成になっているわけだ。
もちろん深夜帯とはいえ、実際に混む電車もあるわけだから、一概に運用上の都合だけ、とは言えないが
おおよそ深夜帯の電車運用は翌朝の準備を兼ねているものである。
決まった予定で毎日電車が動いているからこそダイヤが守れるのであって、電車が日によって走ったり走らなかったりではダイヤにならないのだ。
金曜日、仕事帰りにちょっと立ち寄りがあって、軽く酒を飲んだ。
でもそんなに長居したわけでなく、早くに切り上げて8時過ぎに大阪駅へ戻ってきた。
いつもなら20:15の新快速だが、これは8連で比較的混む電車、酒の入った状態でずっと立っているのもしんどいな、と思う。
20:30は12両だが、米原行きでもし野洲で起きそびれるとやっかいだ、というわけで20:08の824Tで帰ることにする。
これも221系12連の長い編成で、編成後尾は確かに大阪を出る時点と京都ではかなり混んでいるのだが、野洲に着く頃にはもうがらがらになる電車。
酔いも回って、高槻で中ドア後ろの向かい合わせ4人がけを独占してごろごろのんびり。
京都で若いにいさんが向かいに座ったが、瀬田で降りていき、また4人がけを一人で独占、久しぶりに体をL字にしてゆっくり寝て帰る。
昔の夜行急行での移動を思い出してしばらく至極の時間であった。
野洲に着くと824Tは電留線に引き上げ、明日の朝までしばらくお休み。
深い意味はないが何となく車庫へ引き上げる電車を見送ってホーム中ほどへ歩いていくと
乗り過ごしで起こされたと思われる客が座り込んでまた眠っている。
電車は事故でもない限り決まった時間に家に帰って翌日の準備をするが、
人間はなかなか決まった時間に家に帰ることができないものだ。
まぁ電車には寄り道ができないし、仲間が集まって酒を飲むこともないからねぇ。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 風が吹くと桶屋は儲かる、ダイヤの乱れに巻き込まれない
3/26
昨日、水曜日の話である。仕事場でそろそろ机の回りを片づけようかと思いつつ、
運行情報HPを開くと、湖西線風規制で特急列車米原迂回の記載が出ている。
これはのんびり机のまわりを片づけている場合ではない、とあわてて帰り支度。
今日はのんびり3510Mあたりかと考えていたものが、急におよそ1時間早い帰宅になった。
804T、大阪駅17:38の地雷と揶揄される6連T電である。
いつものようによく混んだ電車だが、新大阪でまとまった下車があり、
車内は少し落ち着いた。これに乗って瀬田か南草津まで行って、
迂回4001列車、青森行き寝台特急日本海を写真に収めようか、と思った次第である。
もともと寝台特急日本海は大阪17:47発。
つまり17:45の3498Mと18:00の3500M、この二つの新快速の間に入るはず、といいうのは容易に想像の付くところである。
そこで804Tで瀬田または南草津の上り方ホーム端で写真を撮ってみようか、とたくらんでみたのだ。
ところが804Tに乗り込んだとたん、そういえば3498Mに乗って石山で草津線5372Mに乗り換えれば瀬田に804Tより早く着くことに気が付いた。
いつも3498Mに乗ると、石山で隣に並ぶ113系である。
そこで急遽計画変更、高槻で後から来る3498Mに乗り換えることにした。
が、いろいろと話は続くもので、いつもなら804Tの茨木停車中に豪快に抜いていく4039M、サンダーバードが来ないのである。
もともとの北陸からの到着が遅れているようで、どうも全体に時間が読めない様子。
しかも3498Mに乗っていて気が付いたのだが、さすがに最近日が長くなったとはいえ、
19時近くになるとやはり暗い。これではわだらんのコンデジでは写真になりそうにもなく、ならば無理に瀬田でなくても、
野洲でホーム通過中の動画を撮ればよかろう、となった。いろいろ思い悩んだあげくが野洲で待つことにしたわけで、悩んだだけ損であった。
結局野洲で3498M着後待つこと約30分、特急が2本通過した後にやっと日本海がやってきた。
なんとかしばらく命を繋いでいる数少ないブルートレインであるが、この先いつまで持つものだろうか?
そしてこれから春がやってくると湖西の山から下りてくる強風で荒れる日は減ってくる。
この先しばらくは野洲を迂回することもなかろうかと思う。
もちろん迂回を安易に期待したり、ましてやダイヤの乱れを望むようなことはヲタとして失格なのだろうけれども。
しかし湖西線迂回祭りのおかげで、この日は助かった。
野洲をちょうど日本海が通過している頃、京都では信号機故障(ポイント不転換?)が発生し、電車がしばらく立ち往生してしまったそうな。
3498Mは定刻だったし、その後の3500Mも特急遅れの影響で6分ほどの遅れは出ていたが、それでも大騒ぎするほどではなかった。
わだらんも信号機故障に巻き込まれることもなく、順調な帰宅であった。
もし湖西線迂回祭りがなければ、混乱に巻き込まれていたのかな、湖西線や北陸特急利用者のみなさんには申し訳ないが、
何かのお導きだったのだろうか。
しかしこの日は京都駅ビルで停電騒ぎが起き、湖西線は一部運転を見合わせ、
そして最後に信号機故障と、京都を通る列車や京都駅利用者にはあまりいい日ではなかったようだ。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 「先行列車の遅れ」は遅れの理由なのか
3/23
野洲で言えば当初発表で心配された終電繰り上げも大きな影響なく、むしろ深夜増発でよくなったに見えるこの春の改正だが、
一つ心配なことがあった。
琵琶湖線内夜の下りT電の時刻立て替えによる3498Mの折り返し変更である。
今まで大阪17:45の新快速3498Mは野洲着後一旦野洲派出へ引き上げ、19:34の833T折り返しであった。
少々3498Mが遅れても833Tには影響がでなかったのだ。
ところが、今回の改正ではホームでそのまま827Tに5分で折り返すことになったのだ。
833Tは米原からやってくることになり、南彦根や河瀬から滋賀県南部へ帰宅する方には便利になっただろうと思う。
さて、今日は歯医者を予約して、急いで帰る段取りであった。
無事に3498Mに間に合い、しかも狙った出張者が新大阪で降りてくれて、うまい具合に新大阪で着席である。
これで寝て帰るだけの快適な通勤である、はずであった。
ところが、山崎の手前で前後に大きく揺れて目が覚めた。電車はやたら低速で進行中。
車掌が「先行列車の遅れで」とお詫びの放送をしている。
この3498Mの前はサンダーバード4039Mである。
それとも3072M文殊の回送が遅れていたのだろうか?確かに大阪駅で2768Mは遅れて入線してきたのだが。
事情がわからないまま京都6分延。
さらに悪いことに京都で「この電車は草津まで」と言っている。
確かにこのまま野洲まで行けば827Tに間に合わないのはわかるのだが、でも一般の方には
なんで遅れていると草津までしか行けないのか、理解できないものではなかろうか、と思う。
しかも草津に着くと802Tの姿はなく、次の電車まで待ちぼうけである。
案の定車内で「何で野洲まで行かないのか」とごねる客がいて、電留線引き上げに手間取ってしまっている。
せめて802Tが対面で待っていれば、乗客の怒りも大きくないのだろうが、わずか5分程度の電車の遅れのために草津で放り出されて、
しかもこれまた5分ほど遅れている804Tを待たねばならないというのは、おそらく一般の方には理解できないだろう。
もちろんわだらんも本線運用ヲタであるからこそこのからくりが読めるのであって、単なる鉄ヲタならやはり理解できないだろうか、と思う。
地雷などと揶揄される6連で混雑の激しい804Tは草津で3498Mの大量の客を拾って車内は大騒ぎ。
それでもなんとか野洲6分延で落ち着き、歯医者に間に合った。
草津の待ち合わせとか、案内誘導とかといろいろ思うところはあるのだが、まだ電車遅れがあとの予定に響かなかっただけでも良しとすべきだろうか。
かわいそうなのは827Tを野洲・守山・栗東の各駅で待っていた客であろう。
本線でもいわば末端区間で、運行状況HPにも載らず、単に列車運休で片づけられてしまったのではなかろうか。
そもそも今日の遅れは長岡京で子どもの線路立入があったそうなのだが、でもその話は結局後からわだらんが聞いてわかった話で、
わだらんが関係した列車の車掌からも駅員からも何のお知らせもなかったのである。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 甲賀ものと伊賀もの、違いがいろいろあるらしい
3/22
春の陽気に誘われてか、単なる出かけ好きか、まぁとにかくいい天気であったので、三重県伊賀市、旧阿山町にある農業体験施設にでかけた。
まぁとにかく大勢の人出で、駐車場には車を止めることができず、少し離れた第二駐車場へと誘導された。
そこで待っていたのはいかにも表記だけを塗りつぶしました、と訴えるような緑とクリームの元都営バスが2台、第二駐車場と施設の間をピストン輸送中。
まぁこんなに混んだ定期バスを三重県内で見たことがないぞ、と思わずにはいられない大活躍。
たいそうな人出でびっくりだが、こんなへんぴな行楽地によくもまぁ人が来るものだ、と思う。
ただ、考えてみるとここは名古屋からも大阪からも、そして今は京都からも車なら実に簡単に来ることのできるところで、
しかもこの20日には甲南ICが新名神にできて、さらに高速が近くなった。
名古屋からなら新名神に入ってトンネル抜けてちょっと、の感覚。
その意味ではこの某農業施設の最寄りである柘植駅も本来名古屋からも大阪からも、
そして京都からも極めてアクセスしやすい線路配置になっているのだが、
肝心の列車が途中で乗換を必ず要し、しかもその乗り継ぎも決してよくないとなると、なんとも情けないと思う。
もちろんかつては列車本数が少ないながらもそれなりに直通列車があって、今見ると当時のダイヤでも観光に使えそうなものだ。
今は確かに昔に較べると列車本数は増えたが、観光地への足として成立しないのはどうしたものだろうか?
かつてはこの農業施設行きのバスが柘植駅前で土曜休日に待っていたものだが。
ところで、甲賀と伊賀の境、この旧阿山町と旧甲賀町のあたりはなだらかな丘陵地の続く場所。
同じ滋賀県三重県県境でも鈴鹿の山を境にするところとは違って、地形的にも集落的にもなだらかに連続しているように見える。
実際旧上野市と旧水口町は大型店の商圏が重なるらしい。
昔々、戦国時代の忍者がいる頃にはこの二つ、仲が悪かったのかもしれないが。
ちなみにこのあたり、かつて近江鉄道が現在の近鉄大阪線伊賀神戸を目指して、
貴生川から路線延長をたくらんでいたところだ。
人口まばらなこのあたり、仮に完成して米原から伊賀まで直通列車が走っていたとして、
いまでも線路が存続できているかどうか、少々疑問ではある。
とはいえ、もともと行き来のある県境付近、もし近江鉄道が伊賀盆地まで入っていれば、
今と少しは人の流れが変わっていただろうか、とちょっと妄想。
伊賀市の市長と甲賀市の市長が毎年手裏剣対決をしているのだが、
関西圏の人間でもそもそもこの二つの市が隣り合った場所だ、と正確にわかっている方はどれだけおられるだろうか。
高速道路1000円上限割引は、観光客誘致に結構な効果を及ぼしそうな予感がする。
渋滞を呼ぶ程までに車が入るのはまた問題だろうが、でも観光客の増加は地元経済にはきっと役立つであろう。
願わくば鉄道も観光客増加に一役立てればいいのだが、本来車の両輪であるはずのローカル線活性化と観光客誘致が、
なかなか一体になっていないなぁ、と少々寂しく思う。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 電車が見えるのと接近を知るのは別物か
3/18
またまた人が亡くなった話で恐縮なのだが、火曜日の朝、野洲市内で事故があり、お年寄りがなくなったそうだ。
新聞報道によると亡くなられたのは近くに住む男性、92歳の方なのだそうだ。
自転車で、しかも事故現場にはゲートボール用の道具が散乱していたそうで、これだけ聞くとずいぶん元気なお年寄りのようである。
まぁ92歳のお年を召して自分で自由に移動できるのなら間違いなく元気な方だと思われていただろう。
ただわだらん的に気になるのは事故の場所と時間である。
朝8時ということなので、お年寄りの集まりに出かける途中だったのかなと思うのだが、この踏切、どうみても周囲の視界を遮るものはなく、
もちろんそんな朝8時なら充分すぎるほど明るく日も出て、なんで電車に気が付かなかったのだろう、と不思議になる。
まぁそんな状況なので自殺ではない、とわだらん的には思える。
それならまだ事故のほうが自殺よりましなのかな、でも命の重さは同じだし、などと答えのない問答を自分にしてみる。
考えてみると、こんな周囲に何もない踏切である。電車自体も2km先くらいからずっと見えている。
見えているからこそ、なかなか近づかない電車に安心してしまったのか、でもとにかく遮断機も警報機もあるところ、
まさかそんなところで電車に気づかないのはなんでだろう、と思う。
お年寄り故の判断ミスなのか、あるいは電車の存在自体に気づかなかったのか、まぁ信じがたい状況の事故であるが、
だいたい事故というのはなんでこんなことが、と思う場合のほうが多いわけで、これもそんな例なのかと思う。
野洲駅の周囲にも高いフェンスができた。
網目が大きく、電車を見ることにはなんら支障はないものの、でもやはりなにか遮られると言うのは気分のいいものではない。
もともと線路に簡単に入れて、そんな線路で遊んでいたわだらんからすれば、線路に入れないのは実につまらないことなのだが、
昨今の事態では、やはりむやみやたらと人が線路に入れない方がいいに決まっている。
昔は線路で人を轢くと、轢かれた方が悪い、とひとことで片づけられていたのに、
最近はそうでもないようで、鉄道事業者側からすればやっかいな話なのだろう。
そんな状況でも、簡単に線路にはいることができる場所、それが踏切である。
踏切に立ち止まって、伸びる線路を眺めているのは楽しい。
ましてや周囲に何もない、広々としたところならなおさらである。
踏切が無くなれば、今より事故も減り定時運転率が上がることは間違いないが
でもせめて踏切ぐらい残っていてくれないと線路と遊べないではないか、とわだらんは思う。
もちろん踏切上で線路遊ぶと言っても、別に線路を歩くわけでなく、あくまでレールを踏んでみたり、である。
決して踏切から線路に降りたりしてはいけない、当たり前の話なのだが...
さて、冒頭の事故のあった踏切、実は少し前にここで書いた新(あたらし)踏切である。
まさにわだらんがずっと直線で伸びていく線路を足で跨いで気分良く遊ぶところである。
場所と情景、そして周囲の状況を知っているからこそ、なんでそんな場所で、と思わずにはいられない。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ おくりびとは英語でDeparture
3/16
九州特急がついに東海道山陽筋から消えてしまった。
マスコミもずいぶん取り上げたせいか、沿道はどこもかしこも大勢の人だかり、東京駅や横浜駅は当然にしても、
深夜の京都や大阪でも人だかりができるというのはなんとも大騒ぎである。
廃止を騒ぐぐらいならもっと乗ってやればいいのに、そうすれば利用率の低迷という口実は避けられたのに、といつも思うのだが。
まぁ沿線に現れた写真家の中でどれだけ九州特急に世話になった人間がいるのか、
どうみても寝台特急に縁のない若者ばかりではないか、などとぶつぶつ言ってみる。
まぁ東京で3000人とか、大阪で500人とかも確かに凄いが、
もっと凄いのは14日早朝5時、大粒の雨のなか、約90分遅れの上りはやぶさ富士を待つ野洲駅ギャラリーが6人もいたことだろうけれども。
そんないわばお祭り騒ぎの中で、ふと心にしみる、ちょっと涙ぐむ言葉が現れた。
とある公共放送の7時のニュース、13日放送の最後の部分なのだが、某アナウンサーがひとこと、「さようなら」と。
こういった列車の最後の場合、多くのしかもどうみてもあまりその列車に縁のなさそうな人間が「ありがとう」とか「ごくろうさま」などと大声を上げる。
まぁ感情的にわからないわけではないが、でもそんな「ありがとう」なるような話があるのかどうか。
もちろん人によっては「ありがとう」と本当に言える人もいるはずだが、そんな人は大声を張り上げるようなことはしないだろう。
この某アナウンサー、熊本出身だそうだ。
いや正確にはこの放送のあと調べてわかったのだが、だからこそ「さようなら」と、さらりとそして静かに語れたのかな、と思う。
その一言に涙したのはどうやらわだらんだけでなく、例えば「武田アナ さようなら」などとぐぐって見ると次々個人のブログや日記が出てくる。
同じような感覚の方が多いのはありがたいことだ。
確かにいままでずっと近くにいたものがいなくなる、遠くの世界へいってしまうのは、やはり「さようなら」なのかな、
寂しい言葉ではあるが、でもそれが本当の心でないかな、と思う。
わだらん自身もいろいろ想いのある例えば100系新幹線(16両編成)や名鉄美濃町線の最終列車に立ち会ってきたが、
でもその時「ありがとう」とか「ご苦労様」とは思わなかった。
「行ってしまったか」とつぶやいた。
とても大声を張り上げる気分にはならなかった。
そういえば父親が息を引き取ったときもやっぱり「行ってしまったか」と思ったな。
わだらんはまだ視ていないのであくまで想像だが、そのような気持ちが映画「おくりびと」にも描かれているのだろうか。
「行ってしまったか」、見送りで残される側、旅立ちを見届ける側である。
できることなら、これ以上列車や路線の「おくりびと」になりたくないな、と思う。
しかし困ったことに、今朝、また東名名神の大型高速バスメガライナーが燃えてしまった。
昨年5月は大津で西日本車が大津で全焼したのに続いて、今日は関東車が燃えてしまった。
日本で全数4台の車のうち2台が営業運転中に燃えたとなるとちょっと大事である。
このまま運行停止になってしまうのではなかろうか、まさかメガライナーを突然おくることとは、とニュースを見てびっくりしてしまった。
ところで、そんな人をおくる話を書いていたところ、真島満秀さんが急逝した、とネットで知った。
本当にきれいな写真を撮られる方であった。
まるで九州特急の最後を見届けたかのような突然の逝去。
新幹線さくらとかこれからの被写体もどんどん出てくるはずなのに、とても残念。
ご冥福をお祈りします。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 野洲深夜0時のお楽しみ
3/15
今は大阪22:40発の新快速3542Mが12両になったので楽になったのだが、少し前まで8両であった。
ずいぶん混んだ電車である。
仕事帰りに酒を飲むのは概して楽しいものだ。
時折つまらない連中と飲むこともあるが、そんな時はとっとと帰るので問題はない。
楽しい時間が過ごせた後、どう帰るか思案である。
大阪駅夜10時というのはわだらんには魔の時間帯。
野洲行きが新快速も快速もしばらくなく、長浜や米原行きが続くのである。
これらに下手に乗って野洲で降りられないほど寝込んでしまうと難儀である。
それにこれらの列車、夜の時間帯ながら、そう簡単に大阪駅で座ることができないのだ。
結局京都まで立っていて、座ったとたんに寝てしまうというパターンになって、酔いも回って野洲を通り越してしまうことになりかねない。
実際過去に2回、近江八幡まで出張したことがある。
そんなわけで、それ以来ずっと22:40の野洲行、またはそれ以降の野洲行きまで待っていることにしたのだ。
例えば桜橋口のハイウエーバスの発着を見ているのは楽しいもので、酔いが回りながらでもなんとか待つことができる。
ところが、その待望の野洲行き初列車、22:40の新快速は少し前まで8両であった。
もともと混む時間、程度の差はあれ多くの人間が酒を飲んで電車に乗ってくる。
しかも大阪を跨ぐ車内滞留客も多く、なかなか座れない。
その点、次の23:00発の新快速は12両でかなり座りやすい電車、乗ってしまえば
野洲で駅員(正確にはメンテック社員となるが)に起こしてもらうまで大阪から小一時間熟睡できるのである。
ところでこの23:00発の3544Mで野洲まで帰ると、ヲタ的に2つの楽しみがあった。
一つはこの3544Mのすぐ後ろを貨物電車50列車が追ってきていて、まだわだらんが電車から降りて駅構内を抜ける前に野洲駅を通過していく。
列車の構造上、貨物ではあるが電車そっくりの通過音。
颯爽と通過していく姿は東海道線東京大阪間の最速列車、なにせおおよそ6時間で走ってしまう高速列車である。
そして改札を出て駅から家に向かって歩き出すと、やがて下りの寝台特急富士はやぶさがやってくる。
野洲駅0:15通過、遠い九州までの旅路の途中を見送るのがいつもの当たり前のことであった。
野洲まで東京からおよそ6時間、全体18時間弱のうちのまだ約1/3、これからまだまだ走り続ける先の無事を願うように、
いつも線路端で列車の通過を見送る、それがわだらんの習わしであった。
幾度となく旅のお世話になり、そしてなおかつ未だに憧れでもあった九州への寝台特急が、ついに姿を消してしまった。
もう深夜に野洲を通過する寝台車はなくなってしまったのである。
あたりまえのように眺めていた列車がなくなる。
もうぼーっと見送ることができない、つらい悲しい現実である。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 24年間の隠遁生活
3/11
先週、石原真理子がまた結婚するなどと芸能ネタで話題になったが、しかしまたずいぶんと古い話だな、と思う。
石原真理子といえば、わだらんがまだ学生の頃にドラマで活躍していた、とは記憶にあるが、
はていつ頃だったか念のため調べてみるとやはり1985年あたり。
つまり国鉄時代の話で、今とはずいぶん様相が違っていたな、と。
わだらんのその頃の旅行というと一般周遊券で九州や北海道を夜行列車で連泊しながらいろいろ一人で回っていたころだ、
と思い出し1985年3月の時刻表を出してみた。
分割民営化論華やかな時期で、既に夜行列車の一部やローカル列車でずいぶん合理化が図られてはいるが、
でも東京−九州下関間が6往復、大阪九州が4往復寝台特急のある時代で、
福知山線「だいせん」や中央西線「ちくま」などまだ寝台車が多数残っている。
わだらんはといえば、九州や北海道は夜行列車、しかも座席で夜を明かし、移動と宿泊を兼ねていたものだ。
当時は博多長崎間のような短距離でも夜行列車で夜を明かすことが出来、宿に泊まらなくても旅行を続けられたものだ。
もちろんわだらんだけでなく、この頃は一般的にもまだまだ長距離移動は夜行が当たり前、
遊びに行くにも帰省するにも夜行で移動、という時代であったと思う。
今となっては当時の航空券が実勢どの程度であったか、わだらんは知る由もないのだが、
でも航空機は今よりずっと高価な乗り物であったに違いない。
はやぶさにロビーカーが付いたのがこの頃で、全く定員を持たない単なるフリースペースのロビーカーは、
確かに落ち目になってきていた寝台特急の魅力アップのためではあるが、でもまだそんなロビーカーを連結して走るだけの余裕というか、遊び心があったのだと思う。
本来長時間移動の中でのくつろぎというか気分転換のために食堂車やロビーカーがあったのだが、
今の列車にはせいぜい喫煙ルームがある程度で、なかなか自由に動き回るスペースを持たせる余裕はないのだ。
世知辛い時代だと思うし、むしろ1985年あたりの時代ならまだ移動するという行動のあちこちに余裕があったように思う。
このところ深夜の野洲駅へ毎日通っている。もちろん下りのはやぶさ富士を見送るためで、何も毎日通う必要はないぞと笑われそうだが、
それでもふと思い立って先週土曜日から毎日出かけている。
先週の土日はわだらん以外だれもいなかったのに、昨夜に至ってはわだらん以外に3人も駅にいる。
まぁわざわざ深夜の野洲駅に来る、しかもすっと通過する姿を見るだけであるが、ご苦労なことだ。
通過していく列車にもまだ通路に椅子を出して外を眺める客多数で、0時を回ったまだ宵の口、寝るのがもったいないと頑張って起きておられる乗客の多いこと。
わだらんの姿もしっかり目撃されているわけだ。
だた、野洲駅に見送りに来ている人間はみな若い。
まだ寝台特急が華やかな頃にあまり縁のない世代に思う。
華やかな頃を知らない方が、むしろ列車廃止には抵抗がないのかな、などと思ってみたりもするが。
夕方、帰宅途中に新快速の中で人の新聞をのぞき見していたところ、まさに時同じ1985年に姿を消した某フライドチキン屋のおやじが川の中から引き上げられた、と報じている。
24年間ずっと川底に眠っていたのはさぞ冷たかっただろう。
再び地上に姿を現した某おじさんは、世間や列車の移り変わりの激しさをどう思うのか、ちょっと聞いてみたいものだ。
もっとも浦島太郎のように竜宮城にいたわけでないのだから、おじさんは恨み節ばかり愚痴をこぼすのかも。
むしろわだらんが24年前にもう一度戻ってみたいものだ。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 輸送力をまじめに考えてみる
3/9
朝713Mで大阪駅に着いて、さっそく14日からの新ダイヤ時刻表をもらってきた。
最近ダイヤ改正ごとに発行される恒例の線区別小冊子時刻表で、無料の時刻表にしては結構しっかりしたものである。
ネットの掲示板では大阪駅で既に配布開始と土曜日に伝えられていたのに、野洲駅ではちっとも出てこないのである。
少々焦っていたのだが、でも今日の朝大阪駅御堂筋口にはまだそこそこ大量に山積みされていて安堵。
中身は先日買った携帯全国時刻表と同じものなので、内容だけなら別に必死になってまで収集する必要はないのだが、
やはりただ、と言う言葉に弱い。
それに運用調査やいつもの帰宅時の参考用にするにはいくら小型とはいえ、やはり500円の時刻表は大きすぎる。
運用調査には必須のこの無料時刻表、まずは確保できて何より、である。
ダイヤの公表前、プレス発表で終電繰り上がりとか現在の上り最終快速が新快速京都までとかいろいろ騒がれていたのだが、
結果的には大騒ぎする内容でもない、無難な改正であった。
あれだけ疑心暗鬼、蜂の巣をつついたような大騒ぎであった某巨大掲示板の本線スレも、いまとなってはすっかり静かになっている。
高槻へのC電最終が1本なくなるだけなら、少なくとも琵琶湖線利用者には関係ない話である。
わだらん的には、今回ついに九州への寝台特急がなくなって、時刻表の早朝深夜が寂しくなったのはやはり残念だが。
一方で、この改正からのぞみが最大時間9本になる、とJR東海は大宣伝中。
ダイヤ改正の素案は1年前には作業開始しているので、この時期これだけ出張者の減少が見込めてはいなかったと思うが、
まぁなんとも大量移動が可能なダイヤである。
しかもよく見るといつの間にか東京−博多直通ののぞみが定期列車だけで下り27本。
毎時2本確保された上に、さらに予定臨による直通までとにかく本数が多い。
もちろん全て満席でかつ全員が東京博多直通客などというつもりは毛頭ないが、1300人×27本=35100人。
野洲駅の乗車客が一日平均13000人なので、その倍以上。
まぁ野洲駅と比較してもしかたないが、でもその輸送力たるもの、ちょっと恐ろしい。
最後の九州行き寝台特急がなくなる、と寝台券は連日売り切れだそうだ。
でも1両約30人×12両=360人、これでは新幹線4両分程度にしか過ぎない。
何しろのぞみ27本の定員のわずか1%にしかならず、これではとても商売になる数字ではなさそうだ。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 払った以上はそれ以上食べる、乗る
3/6
食べ放題という言葉に弱い。先日も学生時代の友人と焼肉に行き、翌日昼間になってもまだ食欲が湧かないほどバカ食いをしてしまった。
そろそろ体への負担を考えねばならない年になってきてはいるのだが、でもまた串揚げ食べ放題に行きたいし、
守山にある近江八幡本社の某洋菓子店ケーキバイキングにも行きたいし、と金を払う以上とにかく食べたい、などとずっと思っている。
食べることも体力勝負であり、逆に言えば食べられるうちに食べておかないと後悔するぞ、と思いこんでいる。
一日乗車券のたぐいも同じで、買った以上できるだけ電車に乗っていたいと思う。
で、結局旅行に出ても観光などせずずっと電車に乗るばかり、熊本に行っても熊本城に行くわけでなく、松山も道後温泉以外は目もくれず、
京阪石山−石山寺とか、嵐電も叡電も乗ったことがないわだらんが、なぜか鹿児島・熊本・松山は路面電車路線全線乗車していたり、と一日乗車券さまさまである。
新幹線開業前に海岸線を走るつばめに乗っておこうと鹿児島に出かけたにもかかわらず、
市交通局の2日乗車券で鹿児島市内台地上の団地巡りをしてみたら、これが結構面白かったり。
元を取るのは確かに上手であろう、と自負しているが、きっとヲタでない周囲の人間にはなかなか理解されない行動だろう、と思う。
18きっぷの季節になった。
なかなか遠くて出かけられない飯田線のポスターが呼んでいる。
が、春の期間は短く、なかなか使い切れない。
まだムーンライト九州でもあれば筑豊電鉄とか、宇部小野田線とか出かけたいのだが、それもかなわずになってしまった。
そもそも18きっぷで遠くに出かけることしか考えていないからそうなるのであって、本来一日2300円、片道1150円以上なら充分だと思わねばならない。
そう考えると大阪野洲で片道1280円、これなら18きっぷでも充分だったりする。
実際彦根への観光客などは結構18族が多いのではないかと思う。
18期間中の午前上りの新快速はいかにも18きっぷを複数人で同時使用します的おばちゃんがとにかく多いのだ。
来客も少なくあっさり仕事が片づき、18時ちょうどの新快速3500Mに乗る。
相も変わらず車内は混雑し、通路の奥に入ることすらままならない状況。
結局京都までドア付近でうろうろしていたが、逆に京都での大量降車のおかげで座席を確保。
座ったとたんいつものように寝てしまった。
草津で目が覚めるとなにやらわだらんの頭の上がやかましい。
通路に立っているおねえちゃん、まだ大学生くらいだろうけれども4、5人が京都の紙袋を持って立っている。
そしてしきりに会話しているが、なぜか「今度は下呂温泉に行きたい」などと話し込んでいる。
学生で下呂とはまた優雅な話、でもそもそもなんで下呂なんだ、滋賀県人は下呂ってそんなに知名度高くなかろうに、と思っていて気がついた。
どうやら彼女たち、名古屋近郊に住んでいるらしい。
そうか18きっぷで京都まで出てきたのかな、と。
名古屋京都だと片道2520円、約2時間の行程で、往復5000円なら18きっぷで充分元が取れる。
で、今度は下呂まで出かけようなどとたくらんでいるようだ。
わだらん的には名古屋京都では18きっぷがちょっともったいないと思うのだが、でも一般的にはそれくらいの使い方が標準で、
やたら夜行にこだわるのは、ごく一部のヲタだけだ、とよくわだらん自身に言い聞かせておかねばならない。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 客がいれば走る、いなければ走らない自由
3/5
寝台特急はやぶさ富士の廃止が間近になって何かと騒がしいこの頃であるが、
一方でムーンライトながらの格下げの話はあまり話題になっていないような気がする。
このところ18切符の期間中は特に指定券が取りにくく、しかも東へ行く理由があまりないこともあって、わだらんは最近あまり乗っていない。
というか、全席指定のムーンライト373系になってからは1,2回乗ったかな、と思う。
少なくとも一番最近は日立電鉄の廃止前に乗ったきり。
確かにまだいわゆる大垣夜行と言われた頃から何度となく乗ってはいるが、だいたい18きっぷだからムーンライトになるのであって、
18きっぷのない季節にどうしても東京方面へ行こうとなるとやっぱり高速バスになってしまう。
わざわざ正規の普通乗車券でムーンライトに乗ろうとも思わないのし、実際いつもはがらがら、
というのはまぁみなが考えることで、そうなると定期列車からの格下げもしかたないかな、と思う。
電車好きからすれば、いつでもバスに対抗できるような比較的安いしかも乗りやすい列車、
かつてのシュプール号みたいな列車を設定してくれれば、少なくとも東京大阪間のような大動脈であればある一定の需要はあると思うのだが、
なかなか今時夜行列車をわざわざ設定してまでという意欲は某新幹線会社にはないだろうな、とあきらめの境地である。
昔むかし、東海道線が電化完成になったころは、東京大阪間、いや正確には東京から大阪を越える長距離普通列車が複数あって、
深夜に小さな駅、もちろん野洲もあるいは篠原も停車していた。
その後いくらかの変遷があって、昭和43年に当時最後に残った143・144列車を廃止することになった。
もちろんこの時点ではまだ銀河を始めとする東京発の夜行列車はたくさんあったのだが、普通乗車券だけで乗れる列車がなくなるのは困る、
とずいぶん騒がれて、時の国鉄総裁の英断(?)で廃止を免れた経緯がある。
この夜行普通列車が幾多の変遷を経ていまのムーンライトながらとなっているのであるが、
そんな18きっぷの利用者ばかりの今となっては臨時列車降格もあまり問題ではないのだろう。
まぁ18きっぷの季節にはどうせ運転されるだろう、などとみなが安心しているのかもしれないし、
残念ながら今や夜行列車に頼らずともなんとでも移動できる世の中ではあるが。
そんなことを考えたのは今朝、いつもの713Mで南草津までやってきたときに、某ピンク色の高速ツアーバスを見かけたからである。
あれ、南草津で降車する設定もあるのかな、と念のためさきほど某ピンク色バストラベルをネットで見ると
まぁびっくり、南草津も草津も、そして彦根にも立ち寄るご丁寧なバスをあたかも毎日定期運行しているようだ。
もちろん路線バスではないので、乗客がいなければ停留所を飛ばしてもなんら怒られないし、そもそも停留所という概念がない。
でもそのバスが南草津駅構内にいたということは、南草津での乗客がいた、ということになるわけだ。
まぁほとんど定期バスと同じような運行を、路線バスよりはるかに緩い条件で運行していれば、定期バスが勝負できないわけだなぁ、と改めて思う。
でも定期バスですらそんな状況なのだから、これでは夜行列車など存続できるわけがない、と思わざるを得ない、厳しい現実。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 新幹線はいつまで"新"か
3/2
野洲というところは田舎と都市圏の境である、とつくづく思う。
電車の本数にしても、あるいは市外局番区域にしても、なにより車窓の様子が野洲を境に変わってくる。
上り電車に乗っていれば、野洲の電留線を過ぎるとあとは左右に広い田んぼが広がるだけになってしまう。
もちろん昔は瀬田川鉄橋を渡ったあたりとか、あるいは草津駅の南側とか、いくつも田園風景が広がる区間が野洲の南にもあったのだけれど、
今はずいぶんと見通しが悪くなってしまった。
その点野洲の東側は気持ちのいい、広がる田んぼと広い空が何か心を大きくしてくれそうだ。
天気のいい日曜になって、そんな田んぼのなかを車で走っていた。
田んぼには既に水の入りだしたところもあり、やがて電車が田んぼに水鏡になるような季節がやってくる。
電車もなにか気分よさそうに走っているように見える。
そんな風景を眺めていて、ふと架線柱が新しくなりつつなるのに気がついた。
篠原小学校のあたりは既に単線型の一本足の新しい架線柱になっていて、そこから下るに連れてまだ建植したばかりの架線柱が並んでいる。
東海道線全線電化、つまりこの滋賀県内の電化から既に50年を越え、架線柱も世代交代のようだ。
ただ、いままでの門型でない片足単線型の並列、上下線を跨がない各線単独の架線柱。
高速運転では上下線の架線を同じ架線柱で支えていると、共振とか何か問題があるのだろうか、
新幹線や高速新線、あるいは最近開業のものも架線柱は多くが単線型で、門型は珍しく見える。
ここ琵琶湖線も新快速がびゅんびゅん飛ばしながら走ってくるようになって、高速新線同様の架線柱になったのかもしれない。
なにしろ電化後まもなく走り出した151系特急電車は110kmが最速だったのに、その後120kmの雷鳥が出て、いつの間にか新快速が130kmで走っている。
しかも日中1時間に1本程度だった特急こだまなどの時代から、いまや早朝から深夜まで時間2本の新快速が走っているご時世。
電化当時は電車・電気機関車置き換えで大騒ぎだったのだが、もうすっかりその時代の数段上に列車速度も列車本数も上がっているのだ。
そんなわけで新型の架線柱になるのなら旧型の記録をしておかねば、と架線柱の写真を数枚、線路横の道路と踏切から撮っておく。
そういえばこの踏切、「新踏切」と名が付いている。
近くに新という地名はないし、かといって最近できた踏切でもない。
終戦直後に米軍の撮影した航空写真(国土変遷アーカイブ)などを見る限りでは1947年の時点でこの踏切はあるようだ。
踏切の繋がる道自体も集落間を結ぶ昔からあると思われるもの。なんで新とついたか不思議。
まぁこの踏切から上り方を眺めると、まっすぐに続く線路がずっと先まで見渡せて、気分一新できるようなすがすがしい気持ちになるが。
そういえば、この踏切のすぐ南側を新幹線が通っている。
今でこそ周囲に人家が建って踏切から直接新幹線は見えないが、新幹線建設当時はいまよりずっと在来線と新幹線がそれぞれ見通しの利く、
それこそ追い抜き追い抜かれを体験できる長い距離だったのだろうと思う。
篠原から野洲までの区間ほぼ全部でずっと新幹線の線路を在来線から見ることができたようなのだが。
で、既に開通してから45年になろうかという新幹線、きっと開業100周年になっても新幹線なのだろう。
*********
雑記帳表紙へ
メルマガの登録、解除はこちらから
わだらんの鉄道自由研究表紙へ
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |